一度も宗教に所属したことがない人には分かり辛い、信者であれば感じ続けている心理的な所があります。
啓典の内容が、神が国民を殺しまわるという邪悪な内容であったとしても、なぜか信者は一様に「神は私も皆も愛していて、神は愛にあふれている」と言います。
それはなぜなのでしょうか。
・啓典は関係ない
・お祈りの心理状態
宗教ではお祈りを教える
宗教ではまずお祈りを教えます。お祈りは非常に内省的な行為です。
啓典の内容に関係ない
つまり啓典よりもお祈りでできている。
一度も宗教に所属したことがない人には分かり辛い、信者であれば感じ続けている心理的な所があります。
啓典の内容が、神が国民を殺しまわるという邪悪な内容であったとしても、なぜか信者は一様に「神は私も皆も愛していて、神は愛にあふれている」と言います。
それはなぜなのでしょうか。
・啓典は関係ない
・お祈りの心理状態
つまり啓典よりもお祈りでできている。
今から新NISAを15年かけて1000万円投資したとしましょう。1年で66万円のペースで、新NISAの複利は9.5%/年(オルカンの平均値)だとします。
01年: 730,000円
02年: 1,529,350円
03年: 2,404,638円
04年: 3,363,078円
05年: 4,412,571円
06年: 5,561,765円
07年: 6,820,133円
08年: 8,198,046円
09年: 9,706,860円
10年:11,359,012円
11年:13,168,118円
12年:15,149,089円
13年:17,318,253円
14年:19,693,487円
15年:22,294,368円
15年経てば2229万円です。2.2倍ですね。
今からエホバ神に15年かけて1000万円投資したとします。1年で66万円(投資額確認不能、引き出し不能)のペースで、エホバ神からの複利はN%/年(確認不能)だとします。
01年:問い合わせても確認不能- 666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
02年:問い合わせても確認不能- 1,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
03年:問い合わせても確認不能- 2,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
04年:問い合わせても確認不能- 2,666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
05年:問い合わせても確認不能- 3,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
06年:問い合わせても確認不能- 4,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
07年:問い合わせても確認不能- 4,666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
08年:問い合わせても確認不能- 5,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
09年:問い合わせても確認不能- 6,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
10年:問い合わせても確認不能- 6,666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
11年:問い合わせても確認不能- 7,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
12年:問い合わせても確認不能- 8,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
13年:問い合わせても確認不能- 8,666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
14年:問い合わせても確認不能- 9,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
15年:問い合わせても確認不能-10,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
15年後では今まで1000万円投資していたはずですが、金額の確認はできませんし、投資額を引き出せませんし、なんら還付金もありません。実質0円です。どこに消えたのやら。1000万円あれば一人産めて、エホバ神を愛する信徒をもう一人増やせるのですが、エホバ神は信者が増えることに全く興味がなく、お金のことがひたすら大好きです。信者はこんなエホバ神に対して「エホバ神は実在し、私を愛し、私たちを愛している」となぜか代弁しています、物事が見えてなさ過ぎて狂気を感じますね。
エホバ神さん。あなたの全知全能を使って献金を2.2倍にして、あなたを愛する信者に対して貧困で大変だったねと言ってお金を返したりしないんですか。これからも、信者からむしり取ったお金を全額自分のものにして、献金出し渋る信者に対して地獄に叩き落とすぞと脅しをかけ、札束を数えながら、貧困の信者に静観決め込むんですか。全知全能なのに割とかなり人間性最悪ですよ、ノブレス・オブリージュって言葉知らないんですか。
今後また日本の税率が上がるとエホバ神さんを愛する信者はより生きるのが厳しくなるのですが、さてエホバ神さん、まだお金抱えて静観決め込むのですか。
いや神の生態をきちんと考える知能がない信者も大概やばいけど、エホバ神というキャラを使って信者から献金絞るエホバ運営者は価値観が邪悪すぎて人間性を疑いますね。
コロナ始まったころ、各宗教の指導者様が集まってコロナ終息を願いお祈りを捧げてくださった徳高い出来事がありました。その指導者様たちの動機は一転も曇りなくて非常に素晴らしいと思います。しかし実際そのお祈りの効果はまるで何もなかったかのようにコロナは広まり続けて今の私にまで届いて今死にそうなのですが。
指導者様は意識が世間体と乖離している故に自分のその世界の善意をなんの衝突もなく一点の曇りなく突っ走っていけて、ひいてはコロナ終息のお祈りを捧げるというような善意ながら意味のないことをするんだと思います。
いや指導者様はマジで心根は天然記念物レベルのいい人なんですよ。世間体と善意がずれているだけで。あと性格も世間体とずれている故の独りよがりが人によって見えますが。いや基本的にマジで献身的ないい人なんですよ。
コロナは、各宗教指導者様の祈りでは死なず、大川さんの信仰ワクチンにも臆せず、今も生きていて私の体を蝕んでます。
各宗教では「世界の終末が近い、イエス様(など他の宗教の神的な存在)が降りてきて世界を終息させる」と内内で信者が恐怖しながら叫んでたんですよ。なぜ知ってるかって、だって私カルトに所属してましたし。
・コロナ:2019年12月-。500万人死亡。現在は殺傷能力を落としたのか、元々殺傷能力が弱かったのか、風邪・インフルエンザの隣に数えられる程度の脅威
・スペイン風邪:1918-1921年。5000万人死亡。当時の世界人口の4分の1が感染。第一次世界大戦中に流行ったのもあって凶悪な感染症に数えられる
・ペスト:1347-1353年。5000万人死亡。当時の世界人口の4分の1が死亡したという歴史的に見ても最悪な感染症
結果だけを見ればコロナごときにはなります。
ただスペイン風邪は人と動物関係なく菌が移動できるので、動物からもスペイン風邪がじゃんじゃん感染してたので感染力は明らかにスペイン風邪の方が上。コロナ初期から私はコロナごときとは思ってました。
ペストで世界の人口の4分の1が死亡するという地獄があってもイエス様はまだ世界の終末ではないとお考えになって空から出てきませんでした。コロナごときで世界の終末が来るわけありません。イエス様の貫禄が違います。
とまあ、信者達はガチでスペイン風邪・ペストの知識がないので、コロナが最強で怖いわと怯えるわけで。手元のスマホでちょっと調べりゃわかる話じゃん。あなたたちの理論であってもコロナよりすごいの過去にあったからコロナごときで来るわけないじゃん。というか終末そのものが毎回外れまくってるから終末論からしてそもそも馬鹿らしいじゃん。信者達はスマホを持っていても何も学ばず、信者のまま妄信し続けるという。
コロナ、マジで終わってほしいなぁ。
某大川さんが信仰ワクチンでコロナを終息させるとおっしゃっていた時期がありましたね。
そうして欲しかったです。
コロナで今も色々手間です。
土曜からコロナを引き始めて現在です。
冬場というのがあり、コロナの療養難易度が高いです。
一度寝たらのどにたんが絡まって死んでいるかもしれません。
明日このブログを更新します。もしできていなければ死んでいます。コロナ完治したら記事消しますね。
このブログを読まれる皆様は向上心があって私は好きです。
・こちらの記事を参考に免疫力を付けて
過ごされるようお願いいたします。
なぜか大抵のカルトは終末論を採用しています。
終末論とは、神にとって現代は倫理的に荒廃して見るに堪えないので世界の終りの日(終末)に一部の聖人を除いて全てを滅ぼす、という論です。明日にも世界の終わりが来るかもしれないので、それに備えて備蓄したり早く徳を積んで聖人に至ったりしよう、という風に教団は信者に説いています。
終末論期限型の信者の思考 終末前:決められた終末の日に向けて備蓄や善行に励もう。 終末後:教団の我々の願いが聞き届けられた。我々の信仰が薄れる前に教祖が次の終末の日を予言された。 終末論期限型について思う所 |
終末論不明型の信者の思考 いつ来るかわからない終末の日に備えて備蓄や善行に励もう。 終末論不明型について思う所 |
ヘヴンズ・ゲート事件
1997年アメリカにて、地球がリセット(一掃)される前にヘール・ボップ彗星と共にやってくる宇宙船に魂を載せるため、宗教団体ヘヴンズ・ゲートの指導者アップルホワイトと38人の信者が計画的に集団自殺(洗脳による殺人と同じ意味)を遂げた事件。
ヘヴンズ・ゲート事件はカルトの悪性を世界に知らしめた有名な事件。
指導者アップルホワイトの思想スピーチ
https://youtu.be/AqSZhwu1Rwo
https://youtu.be/rZnBkdFooFU
私の実例。末日聖徒イエス・キリスト教会
私が所属していた末日聖徒イエス・キリスト教会では終末論不明型が信じられていました。信者の皆は教会で言われる終末論不明型については、思考が忙殺されるほど数多くの教義の中の一つとして埋もれつつも、気持ちだけは本気で信じられている教義、という感じでした。つまり深くは考えてないけど実際に正しいことだと信じてはいる教義です。(まあ信者は「幼子のような信仰」を持って、教義に対して疑念を抱かないで無心で守るのが美徳だと常日頃から教えられてるんで、「自分はわかんないけど教会が言うから正しい」っていう思考回路になっている人が大半ではあります)
私は信者に「いや終末論はあからさまにおかしい」と上記の内容を伝えたのですが、大半の信者は自分の思考を捨てているらしく、教会はこういう風に素晴らしいと論点をすり替えて話を聞こうとしませんでした。一人の高校生の信者が聞いてくれましたが、教会ヘイトが爆増して人格を持ち崩してて、私は正直少し後悔しました。
神を信じることで体や精神が劇的に治るという「奇跡」が起きている人は信じがたいですが確かに実在します。
私とこのブログの読者様にはもう神を信じるよう努力しても奇跡は起きないと思います。
奇跡が起きるには条件があります。
信仰によって身体的に奇跡が起きたという二人について最近思いにふけることがあったのでしたためます。
私はこの聖書の物語の内容が紀元前後のパレスチナで実際に起きたんだと豪語するわけではないです。聖書は信用してないです。
しかしこの物語の女性のような奇跡的な癒しは実際にあり得ます。
生長の家の場合
寝たきりのご老婆で医者にも見放されていました。
しかし生長の家を信仰することで体が起こせるようになるほど回復。
ご老婆にとって体が動かせるようになるのは奇跡でした。
実際に信仰をすることによって体が治ったという事例があります。
病院の医療では治らなかったものが、神への信仰に身をゆだねることによって体が良くなっていったのです。
これは現代科学では到底説明できない神からの力としか言いようがありません。
マルコによる福音書5:34
イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
(あくまで私の知る範囲ですが)カルト信者は体が治る、精神が治る当の出来事に出会うとそれを「奇跡」と呼び、大事に証言されます。
つまりカルト信者はプラシーボ効果という言葉を本当に知らないので、体・心が治ったという(彼らにとって)説明できない素晴らしい出来事は「奇跡」と呼ぶことでしか表現できないのです。それはまるで女子高生が出来事があるたびに言いまくっている「やばい」と同じ感覚で、かなり軽度に使われます。
しかしもしプラシーボ効果という言葉と意味をカルト信者がしっかり知っていたとしたならば、神への信仰に対して「この信仰はプラシーボ効果のために過ぎない」との疑念が生まれてしまい、神はカルト信者に十分な癒しを与えることができなかったでしょう。
神からの癒しを充分に受けるには、プラシーボ効果という言葉を学ばず、幼子のように神を純真無垢に信仰していなければなりません。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/general-conference/2011/04/become-as-a-little-child?lang=jpn
その幼子のような信仰を持つ代償は、カルトは何も語りません。その幼子のような信仰により無知と浮世離れが生じひいては人間性が欠如して人間的に歪になるという代償は、「奇跡」によって支えられている人の前では無粋なのでしょう。
全知全能の神は確かに信者の精神と体を癒しますが、信者の人間性の欠如を直すことは一切しませんでした。まるで神は自分の信者が人間性のなさで滑稽に問題を起こすのが楽しいので癒しと無知を押し付けてほくそ笑んでいるかのよう。
いや、遅かれ早かれ社会で一人前に生きなあかんやろ当然や、とは思います。奇跡で体が治っているからとか関係なく、大抵のカルト信者には信仰が誤っていると説き伏せるべきでしょう。しかし信仰がなくなった初めは大失敗するのがあからさまに目に見えているので、独り立ちするまでは可能な限りその脱カルト信者を周りの理解者がフォローすべきだと思います。
精神に問題があって人間性に欠陥のあるカルト信者の場合は信仰の問題を説き伏せるべきではないのではないかと思います。その精神疾患のカルト信者にとってどの人生が最高の幸せかを考えた場合、そのカルトを信じていることが最高の幸せだと私は考えるからです。
私はなのですが、人が「幸せ」と言っている時は、その幸せという言葉の背景には何が足蹴にされているのかをきちんと聞くことにしていて、その幸せが長い目から見て続くのか道理的に正しいのか判断するようにしています。
カルト信者の「幸せ」は、世俗にまみれてないから幸せ、という選民意識からくる場合が大半なので、カルト信者の「幸せ」は非社会性の象徴であり、発言した時点でもう手遅れなくらいすでに人間的に持ち崩しています。
もしあなたに大事な人がいて「カルトにいて幸せ」と澄んだ声で言っているのであれば、その人にこのブログを見せて洗脳を解いてあげてください。
www.youtube.com
政府は早ければ10月にも東京地裁に解散命令を請求するかどうか検討していることがわかった。(動画より引用)
山上被告の事件が一年前なのに今更か、と一瞬思ったけれど、いやまあそうだよなぁ、と考えなおしたので、今回その話をば。
元にしろ総理大臣が殺害されたので山上被告は内乱罪(国家反逆罪、死刑か無期懲役しかない罪)。
旧統一教会側はあくまで山上被告が勝手に行った行動であり旧統一教会とは思想的に関わりないと主張。つまり間接正犯じゃないと自己弁護。
もしこの時点で旧統一教会が少しでも政治に対して非友好的な意見を公表してしまえば間接正犯を無理やり適用して解散させてたのではないでしょうか。
他に考えられること
・旧統一教会の重税に耐えかねた山上被告が安部元総理を襲撃した件は旧統一教会は関わりないと言ってたけど弁に無理があるし、というか明らかに関わりあるよね
・岸田現総理襲撃した容疑者の動機ってやっぱ旧統一教会なんじゃないかと疑うよね
そもそも旧統一教会にとって日本は「エバ国家」であり韓国に奉仕する立場なので無茶ぶりさせるべきだという姿勢を取り続けていたので、そこの所の膿が山上被告になりました。
政治家にとって旧統一教会は他の神道系の宗教と同等以上に政治活動を手助けしてくれて大いに恩があるのですが、元々の思想からして日本に友好的ではない団体なのと、これ以上に膿を出したら政治にとってまずいのとがあります。なので恩を差し置いてでも旧統一教会は解散に踏み切ろうとしているんだと思います。
今の平和な日本で緩くやっている大半のキリスト教徒は、年に2・3度くらい気が向いたらに教会に行って良い話聞いて募金して帰ってきて、特に戒律もないという環境であり、毒素がないです。そんな毒素のないクリスチャンを「白人が罪もないインディアン虐殺したからお前も極悪人」「旧統一教会が安部元総理を殺したからクリスチャンであるお前も極悪人」「エホバの証人が慢性的に児童虐待してたんでお前も極悪人」と呼ぶのは全くピント外れなのではないでしょうか。
その緩くやっているキリスト教徒にまで、旧統一教会の仕出かしの余波の厭キリスト教風潮のあおりが迫って来るのは違う気がします。
このブログの読者にはそこの所の分別は完璧に付いているものだと信じています。
カルトに所属する人は、
・心象が全てという主義
・論理の跳躍による自己防衛
というのがしっかりできています。
カルトに所属するうちは、この2点がきちんと倫理的にガチガチに守られてるんで、人格が極端に崩れる問題はない。
下手に説得して仮にカルトを脱したとして、彼の論理を変えたわけではなく、あくまで情を逆撫でしてカルトが気持ち悪いと分からせただけで、彼の論理でカルトを脱したわけではない。
・心象が全てという主義
・論理の跳躍による自己防衛
この2点の傾向がまだある状態でカルト所属という意識だけを外すと、当然のこと倫理的なところから外れ始め、ひいて人格的に持ち崩して、世渡り下手で利己的な人間になりやすい。
きちんとこの2点をしっかり是正する必要があった。私はまだカルトの根深さを軽く見すぎてた。
カルトに所属していた頃は面倒みよかった愛情深かった人間が、カルトから外れたら他人の気持ちを考える心の余裕のない世渡り下手な人間になることがあった。
正直後悔してる。カルト舐めてた。
信者が自宗教を適切に疑問に思い、宗教との共依存関係を断ち切らなければならないのですが、信者は自宗教を疑問視しないよう訓練されているので、かなり根気よく適切に宗教の全体像について教えて、自宗教のマインドコントロールを少しずつ解いていかなければなりません。
宗教は確かに信者の人間性を殺しています。また、信者は宗教が信者の人間性を殺し続けている構造に気付きません。
つまり信者は自分を不安にさせるために宗教に通い続け、自分の人間性が殺され続けていることに感謝をし、自分のような不安型の人間を一人でも多く作るために宗教にお金を払ったり布教活動を行ったりしていることになります。
信者は自分の宗教を適切に理解して宗教者になれるかどうかなのですが、これは難しいと私は感じています。
私が末日聖徒イエス・キリスト教会に通っていた頃に、なぜ自宗教が信者の人間性を殺し続けているのに誰も何も疑問に思わないのかという内容を、きちんと段取り持って詳細に親しい信者に話しました。しかし信者の誰も私の話をろくに聞きはしませんでした。代わりに(会ったこともない)イエス・キリストや神様がどのように素晴らしいかを浅く語って、信じることで救われているのだといいました。その信者はもちろん、パレスチナ(聖地イスラエル)で神がユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒に異なる啓示を与えて盛大に殺し合わせていた歴史を知らないので、イエス・キリストと神様の存在が歴史の中でどのようにセンシティブな立ち位置にいるのかは全く知りません。宗教が教えるままの純真な信者であり、宗教者ではありません。
私が何を言おうと信者には自宗教に疑念を抱かせるのは難しく、信者でいる限りは、正しく宗教を理解して宗教者にステップアップすることはほぼないです。
人間性が熟すると、
他人を適切に成長させるために適切に怒ったり悲しんだりできます。
他人からしたら、自分を思ってくれる良い人だと感じることでしょう。
信者は喜怒哀楽の基準を自宗教に委ねており、人間性が熟しにくいため、
自分が何となく気分を害されたから怒るという次元の人間も居たり、
自分を受け入れて欲しいという欲が強くて宗教知識マウントを取ったり、
他人を成長させるために怒ったり悲しんだりするも宗教基準なので浮世離れした怒り方と悲しみ方をして他人から疑問に思われたりされます。
他人からしたら信者は気のふれた人間だと感じます。
Twitterで現在、エホバの証人の輸血拒否問題が騒がれています。
エホバの証人では信者に輸血は拒否すべきだという旨の教義を教えていました。しかし安倍晋三銃撃事件があり、宗教二世が自宗教を嫌がっていたら保護するという旨のガイドラインを厚生労働省が作成し各カルト宗教に圧力、政府のターゲットは主に統一教会だったのですが今回エホバの証人にも注力、解散命令を恐れたのかエホバの証人が「輸血を信者に強制はしてない」との見解を出してTV報道になり、エホバの証人の信者は「いや輸血の話はめっちゃ教義だったし小冊子で輸血拒否で死んだ人を美談にして、あなたも輸血拒否して信心深く死ねたら最高みたいなこと言うてたやん」とツッコミしました。
輸血拒否の組織的指示を否定したエホバの証人組織。ではこれは一体何だったのですか?表紙の写真は皆輸血拒否をして亡くなっていった子供達です。彼らをヒーローのように讃えるこの記事を幼い頃に何度も読みました。感動的な物語に感化され、自分も彼らのように立派に信仰を示そうと決意したものです。 pic.twitter.com/mlhlVyooi9 「輸血拒否は信者の個人的な決定であり、教団は強制したり圧力をかけたりしていない」という趣旨の公式発言を現役母が知ったらどう思うだろう?信者やその子供は漏れなく教義に従うよう圧力かけられてるのに、案の定信者に責任転嫁。腹立たしくて、信者が可哀想で、胸が苦しい。悔しい。#エホバの証人 pic.twitter.com/u603I0ZXLKTwitterでのコメント(タップ)
さてエホバの証人の教義であった輸血拒否とは一体何であったのか。
当ブログの見解としては、輸血拒否の教義は聖書の歪なモダン化によって生まれたものであり、現代日本人には全く守る意味のない無駄な教義だと結論付けます。
■新世界訳聖書 新世界訳では、血は命を含んでいて特別なものだというニュアンスが深い。 ■新世界訳聖書 新世界訳聖書も同様の内容。 ■新世界訳聖書 新世界訳聖書も同様の内容。エホバの証人が輸血禁止の根拠にしている聖句(タップ)
今回聖書を引用するにあたって、正確な情報を期すため、一般的な『聖書』とエホバの証人の使う『新世界訳聖書』を同時に引用します。
新世界訳聖書は、エホバの証人が独自に翻訳・出版している聖書です。エホバの証人は原典にできるだけ忠実に聖書を翻訳していると主張していますが、新世界訳聖書がエホバの証人の教義に合わせて一部の箇所で意訳されているという指摘がされています。
聖句 一般的に読み取れる内容
創世記
9:3-43 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
4 しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。
3 生きている動物はどれも食物にしてよい。緑の草木と同じように,それら全てをあなたたちに与える。
4 ただし,血を含む肉を食べてはならない。血は命だからである。動物は食べてもいいけれど血を含んだ肉を食べてはいけない。
レビ記
17:10-1410 イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。
11 肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
12 このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。
13 イスラエルの人々のうち、またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち、だれでも、食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は、その血を注ぎ出し、土でこれをおおわなければならない。
14 すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。
10 イスラエルの民や,あなたたちの間に住んでいる外国人の誰かが,何らかの血を食べるなら,私は血を食べているその人に必ず厳しい顔を向け,その人を民の中から除く。
11 生き物の命は血の内にあるからであり,私がそれをあなたたちに与え,自分たちのために祭壇で贖罪を行えるようにした。血が,その内にある命によって贖罪を行うからである。
12 それで私はイスラエル人に言った。「あなたたちのうちの誰も血を食べてはならない。あなたたちの間に住んでいる外国人も血を食べてはならない」。
13 イスラエル人やあなたたちの間に住んでいる外国人が狩りをしていて,食べてよい野生動物や鳥を捕まえた場合,その血を注ぎ出して土で覆わなければならない。
14 あらゆる生き物の命はその血であり,命が血の内にあるのである。そのため私はイスラエル人にこう言った。「どんな生き物の血も食べてはならない。あらゆる生き物の命はその血だからである。血を食べる人は皆,除かれる」。イスラエル人とクリスチャンは血を含んだ肉を食べてはいけない。血抜きしたら食べていい。
使徒行伝
15:19-2119 そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。
20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。
21 古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。
19 ですから,私の決定は,神を崇拝するようになる異国の人々を煩わさず,
20 偶像によって汚された物と性的不道徳と絞め殺された動物と血を避けるよう書き送ることです。
21 モーセの書は安息日ごとに会堂で朗読されていて,それを教える人が昔からどの町にもいます」。ヤコブがギリシャ都市アンテオケの人々に向けて、こう生活して欲しいという要望を手紙を書いて送る。
その要望の一つに「血を避けるように」がある。
文脈的には、血を飲むというよりかは、人殺しを避けるという意図の方が強く感じる。
エホバの証人が輸血拒否の根拠にしている聖句は「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」「使徒行伝15:19-21」です。その内「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」は血抜きせずに肉を食べてはいけないという内容です。
肉を血抜きする意図は、肉は血抜きしないと臭くて食えないのと、血に雑菌が繁殖しているから血を飲んだら病気になる可能性があるのとがあります。
くどいようですが、聖書は中東の人に向けて書かれた書物です。中東は年中蒸し暑い地方なので、血抜きしていない肉は雑菌が繁殖しやすくて危険です。血抜きしていない肉を食べて食当たりで亡くなる人が多かったのでしょう、日本で言う食品衛生法のように聖書に「神が血抜きしてない肉を食べるなと言ってたんで守れよ」と加えたのだと推察できます。
「使徒行伝15:19-21」で使われる「血」は食べてはいけないというよりかは殺し合いで血を浴びるようなことがあってはならないという文脈になっています。
使徒行伝15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。 |
エホバの証人は「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」「使徒行伝15:19-21」を根拠にして、
・血液は神聖なもので、血液を摂取するのは神への冒涜行為であり信仰上の罪になる。
・輸血には病原体の流入や輸血不適合反応や合併症のリスクがある。
としています。信者は輸血を拒否することで信仰と道徳的価値観を守ることができるそうです。
エホバの証人は輸血拒否を教義としましたが、これは聖句の持つ本来の趣旨とは明らかに違います。エホバの証人指導者が自宗教の教義を考える際に聖句を無理やりモダンにするために拡大解釈した結果がこの輸血拒否の教義になったのだと思われます。
なぜこんな聖句と乖離している教義を信者が盲信し続けたのか。キリスト教全般に共通する傾向として、信者は教義や儀式に対して固執し、何の疑問を持つことなく従う(運用する)ことが美徳とされます。このような信仰を「幼子のような信仰」と表現することもあります。教義や儀式に疑問を持つこと、つまりは教義や儀式の持つ本来の意味に気づいて守る価値のない教義・儀式だと他の会員に吹聴してしまうことは教会の運用に支障を来たすので、そういう人を作らないよう、疑問を持つ人は背教者として教会から攻撃される対象になるのだと教会の中で教えて予防線を張っています。また同時に、教会は無批判に愚直に教義や儀式を守り続けるのが美徳なのだと信者には説き、信者もその通りにします。教義や儀式の本来の意味を理解している人は教会内にはいませんし、教会運用上作ってはいけません。エホバの証人の信者が聖句の持つ本来の意味を理解しようとせず、エホバの証人の教義を鵜呑みにし続けるのはこういった理由からです。
エホバの証人含めキリスト教をされている方々には、教会以外の場所できちんと聖書と中東の歴史を勉強して、適切にキリスト教を語れるようになってほしいです。
今まで「政教分離」の法の元で政治と宗教は不干渉だったのに、厚生労働省の出した宗教二世のガイドラインは宗教の動向を監視するものであり、今回のガイドラインは「政教分離」破ってるけれど法律違反じゃないか。
と思いましたが「政教分離」の法をよくよく見るとガイドラインは法破ってませんでした。
「政教分離」とは 以下の二つの法令を指して「政教分離」と言われる ・憲法20条1項「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」 ・憲法20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」 要約 ①宗教団体は国から優遇されてはならない。 ②宗教団体の利益のために政治の権力を使ってはいけない。 ③国を代表する機関(省庁、県庁等)は宗教教育や活動をしてはいけない。 |
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上記「政教分離」要約より ①宗教団体は国から優遇されてはならない。 ②宗教団体の利益のために政治の権力を使ってはいけない。 ③国を代表する機関(省庁、県庁等)は宗教教育や活動をしてはいけない。 |
・自身が宗教の二世以降である。 ・教義に地獄の存在がある。 ・宗教活動をすることがある。 ・宗教活動を誘ってくる信者に嫌気が差している。 |
今件のガイドラインが作られた原因は統一教会が政治活動の邪魔になると政治家が判断したからです。統一教会の角を潰して、ついでにエホバの角を潰して、政治活動に差し障りなくしようという目的があります。政府がその目的を脱してガイドラインの拡大解釈に勤しんで本当に日本に在住する全宗教をぶっ潰しにかかるかどうか。今後の動向が楽しみです。