脱キリスト教カルトの会

キリスト教系カルトに苦しむ人が人生を取り戻すためのブログです

なぜどの宗教でも信者は「神は愛にあふれたお方」と同様に言うのか

 一度も宗教に所属したことがない人には分かり辛い、信者であれば感じ続けている心理的な所があります。
 啓典の内容が、神が国民を殺しまわるという邪悪な内容であったとしても、なぜか信者は一様に「神は私も皆も愛していて、神は愛にあふれている」と言います。
 それはなぜなのでしょうか。

目  次

・啓典は関係ない
・お祈りの心理状態

宗教ではお祈りを教える

 宗教ではまずお祈りを教えます。
お祈りは非常に内省的な行為です。




啓典の内容に関係ない


つまり啓典よりもお祈りでできている。


宗教は神をどう扱うのか

新NISAのオルカンが凄い。あと宗教の献金って邪悪だよね

オルカン凄い

 今、新NISAが凄いんですよ。オルカンが年間利率が20%行くレベルで利回り良いです。100万円を投資したら一年後に120万円になるレベル。しかも無税。
 現在100万円を投資してますが、半月で1万2千円利益が出ました。完全に不労収入です。持ち金全部突っ込んでやろうかと。

 ぜひ皆様もSBI証券とVPASSで新NISAを始めてください。
 今後、医療長寿のご高齢の方々に対して、働く人数足りてない若者たちが血税を注いで支えていかなければならなくなります。税の比率は大きくなるのが目に見えており、普通に貯蓄を得るのが段々厳しくなると思います。
 ぜひ今のうちに皆様も新NISAをして、1800万円溜めましょう。非課税枠が1800万円に近付いたら10万円ずつおろしてお小遣いとして自由に使うのですよ。FIREも可。

宗教献金は信者に還元しない

 ではエホバの証人さん。いや別にエホバの証人に限らず宗教全般の話なのですが、とりあえず目についたんで、エホバの証人さん。
 信者はきたるハルマゲドン(要は社会崩壊レベルの天変地異)で天国に行くためにほぼ全財産を寄付して、清貧を超えて貧困生活に陥っている人が多いわけなのですが。
 エホバの証人事態は1870年設立なので2024年現在で154年経っており、1870年設立当初と同時期にハルマゲドン到来を信じて入会した信徒は事実ハルマゲドンに会うことなく寿命で全員亡くなっているので、客観的に見ればエホバの証人のハルマゲドン自体はもう勧誘のための嘘だと確定しています。ですが現代の信者は未だにハルマゲドンを本気で信じて献金をして貧困になっています。
ameblo.jp
 エホバ神は全知全能なのですが自分自身でお金を稼ぐ能力がなく、お金の使い方が絶望的に下手で常にお金が足りず、お金を出し渋る信者には怒って地獄に突き落とします。けれど信者を愛しています。
 そんなDV旦那そのものの生態をしたエホバ神を信者は本気で信頼して沢山献金しました。1000万円レベルの人も多いでしょう。
 その莫大な献金、信者にいくら還元しましたか。貧困生活に陥ってる信者が多いのに。

 今から新NISAを15年かけて1000万円投資したとしましょう。1年で66万円のペースで、新NISAの複利は9.5%/年(オルカンの平均値)だとします。

01年: 730,000円
02年: 1,529,350円
03年: 2,404,638円
04年: 3,363,078円
05年: 4,412,571円
06年: 5,561,765円
07年: 6,820,133円
08年: 8,198,046円
09年: 9,706,860円
10年:11,359,012円
11年:13,168,118円
12年:15,149,089円
13年:17,318,253円
14年:19,693,487円
15年:22,294,368円

 15年経てば2229万円です。2.2倍ですね。

 今からエホバ神に15年かけて1000万円投資したとします。1年で66万円(投資額確認不能、引き出し不能)のペースで、エホバ神からの複利はN%/年(確認不能)だとします。

01年:問い合わせても確認不能- 666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
02年:問い合わせても確認不能- 1,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
03年:問い合わせても確認不能- 2,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
04年:問い合わせても確認不能- 2,666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
05年:問い合わせても確認不能- 3,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
06年:問い合わせても確認不能- 4,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
07年:問い合わせても確認不能- 4,666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
08年:問い合わせても確認不能- 5,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
09年:問い合わせても確認不能- 6,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
10年:問い合わせても確認不能- 6,666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
11年:問い合わせても確認不能- 7,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
12年:問い合わせても確認不能- 8,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)
13年:問い合わせても確認不能- 8,666,667円(投資額を引き出せないので実質0円)
14年:問い合わせても確認不能- 9,333,333円(投資額を引き出せないので実質0円)
15年:問い合わせても確認不能-10,000,000円(投資額を引き出せないので実質0円)

 15年後では今まで1000万円投資していたはずですが、金額の確認はできませんし、投資額を引き出せませんし、なんら還付金もありません。実質0円です。どこに消えたのやら。1000万円あれば一人産めて、エホバ神を愛する信徒をもう一人増やせるのですが、エホバ神は信者が増えることに全く興味がなく、お金のことがひたすら大好きです。信者はこんなエホバ神に対して「エホバ神は実在し、私を愛し、私たちを愛している」となぜか代弁しています、物事が見えてなさ過ぎて狂気を感じますね。

 エホバ神さん。あなたの全知全能を使って献金を2.2倍にして、あなたを愛する信者に対して貧困で大変だったねと言ってお金を返したりしないんですか。これからも、信者からむしり取ったお金を全額自分のものにして、献金出し渋る信者に対して地獄に叩き落とすぞと脅しをかけ、札束を数えながら、貧困の信者に静観決め込むんですか。全知全能なのに割とかなり人間性最悪ですよ、ノブレス・オブリージュって言葉知らないんですか。
 今後また日本の税率が上がるとエホバ神さんを愛する信者はより生きるのが厳しくなるのですが、さてエホバ神さん、まだお金抱えて静観決め込むのですか。

 いや神の生態をきちんと考える知能がない信者も大概やばいけど、エホバ神というキャラを使って信者から献金絞るエホバ運営者は価値観が邪悪すぎて人間性を疑いますね。

コロナで世界の終末が訪れるわけない件について。あと生存報告

 コロナ始まったころ、各宗教の指導者様が集まってコロナ終息を願いお祈りを捧げてくださった徳高い出来事がありました。その指導者様たちの動機は一転も曇りなくて非常に素晴らしいと思います。しかし実際そのお祈りの効果はまるで何もなかったかのようにコロナは広まり続けて今の私にまで届いて今死にそうなのですが。
 指導者様は意識が世間体と乖離している故に自分のその世界の善意をなんの衝突もなく一点の曇りなく突っ走っていけて、ひいてはコロナ終息のお祈りを捧げるというような善意ながら意味のないことをするんだと思います。
 いや指導者様はマジで心根は天然記念物レベルのいい人なんですよ。世間体と善意がずれているだけで。あと性格も世間体とずれている故の独りよがりが人によって見えますが。いや基本的にマジで献身的ないい人なんですよ。

 コロナは、各宗教指導者様の祈りでは死なず、大川さんの信仰ワクチンにも臆せず、今も生きていて私の体を蝕んでます。
 各宗教では「世界の終末が近い、イエス様(など他の宗教の神的な存在)が降りてきて世界を終息させる」と内内で信者が恐怖しながら叫んでたんですよ。なぜ知ってるかって、だって私カルトに所属してましたし。

・コロナ:2019年12月-。500万人死亡。現在は殺傷能力を落としたのか、元々殺傷能力が弱かったのか、風邪・インフルエンザの隣に数えられる程度の脅威
スペイン風邪:1918-1921年。5000万人死亡。当時の世界人口の4分の1が感染。第一次世界大戦中に流行ったのもあって凶悪な感染症に数えられる
・ペスト:1347-1353年。5000万人死亡。当時の世界人口の4分の1が死亡したという歴史的に見ても最悪な感染症

 結果だけを見ればコロナごときにはなります。
 ただスペイン風邪は人と動物関係なく菌が移動できるので、動物からもスペイン風邪がじゃんじゃん感染してたので感染力は明らかにスペイン風邪の方が上。コロナ初期から私はコロナごときとは思ってました。
 ペストで世界の人口の4分の1が死亡するという地獄があってもイエス様はまだ世界の終末ではないとお考えになって空から出てきませんでした。コロナごときで世界の終末が来るわけありません。イエス様の貫禄が違います。
 とまあ、信者達はガチでスペイン風邪・ペストの知識がないので、コロナが最強で怖いわと怯えるわけで。手元のスマホでちょっと調べりゃわかる話じゃん。あなたたちの理論であってもコロナよりすごいの過去にあったからコロナごときで来るわけないじゃん。というか終末そのものが毎回外れまくってるから終末論からしてそもそも馬鹿らしいじゃん。信者達はスマホを持っていても何も学ばず、信者のまま妄信し続けるという。

 コロナ、マジで終わってほしいなぁ。

私はコ□ナで死んでるかもしれません。

 土曜からコロナを引き始めて現在です。
 冬場というのがあり、コロナの療養難易度が高いです。
 一度寝たらのどにたんが絡まって死んでいるかもしれません。
 明日このブログを更新します。もしできていなければ死んでいます。コロナ完治したら記事消しますね。
 このブログを読まれる皆様は向上心があって私は好きです。
こちらの記事を参考に免疫力を付けて
 過ごされるようお願いいたします。

終末論はおかしい

 なぜか大抵のカルトは終末論を採用しています。
 終末論とは、神にとって現代は倫理的に荒廃して見るに堪えないので世界の終りの日(終末)に一部の聖人を除いて全てを滅ぼす、という論です。明日にも世界の終わりが来るかもしれないので、それに備えて備蓄したり早く徳を積んで聖人に至ったりしよう、という風に教団は信者に説いています。

終末論のタイプ

 終末論には大雑把に二つのタイプがあります。
期限型:世界の終わりの日にちが決まっている。
不明型:世界の終わりがいつかわからない。

終末論期限型の信者の思考
 終末前:決められた終末の日に向けて備蓄や善行に励もう。
 終末後:教団の我々の願いが聞き届けられた。我々の信仰が薄れる前に教祖が次の終末の日を予言された。

終末論期限型について思う所
 いやその終末の日って台風地震もないただの平日だったよね。終末来てないじゃん。

終末論不明型の信者の思考
 いつ来るかわからない終末の日に備えて備蓄や善行に励もう。

終末論不明型について思う所
 教団が100年以上運営されていた場合は初期メンバーが全員ご逝去している。その初期メンバーは臨床で「終末を信じて備蓄や善行をしたのに来てへんやん裏切られた」と不平がつのる。こういう場面に備え、教団は「死後に救われる」が頻用され、信者は無事に誤魔化され、教団は100年を超えても存続する。
 教団運営が100年以上続いている時点で教祖にとっての終末は実際に来ることはなかったので教祖の予言の信用は低い。断言するが、今後いくら待っても待望の終末は来ない。

終末論を信じている人の実例

 終末論は上記のような感じに論理が破綻していて、聞くだに馬鹿々々しいです。もし終末論を信じているとしたら、頭の論理的な回路がおかしいと自分から言っているようなものです。しかし信じられないことに本当にこの終末論を信じている団体も信者も実在します。

ヘヴンズ・ゲート事件
 1997年アメリカにて、地球がリセット(一掃)される前にヘール・ボップ彗星と共にやってくる宇宙船に魂を載せるため、宗教団体ヘヴンズ・ゲートの指導者アップルホワイトと38人の信者が計画的に集団自殺(洗脳による殺人と同じ意味)を遂げた事件。
 ヘヴンズ・ゲート事件はカルトの悪性を世界に知らしめた有名な事件。

指導者アップルホワイトの思想スピーチ
https://youtu.be/AqSZhwu1Rwo
https://youtu.be/rZnBkdFooFU

私の実例。末日聖徒イエス・キリスト教会
 私が所属していた末日聖徒イエス・キリスト教会では終末論不明型が信じられていました。信者の皆は教会で言われる終末論不明型については、思考が忙殺されるほど数多くの教義の中の一つとして埋もれつつも、気持ちだけは本気で信じられている教義、という感じでした。つまり深くは考えてないけど実際に正しいことだと信じてはいる教義です。(まあ信者は「幼子のような信仰」を持って、教義に対して疑念を抱かないで無心で守るのが美徳だと常日頃から教えられてるんで、「自分はわかんないけど教会が言うから正しい」っていう思考回路になっている人が大半ではあります)
 私は信者に「いや終末論はあからさまにおかしい」と上記の内容を伝えたのですが、大半の信者は自分の思考を捨てているらしく、教会はこういう風に素晴らしいと論点をすり替えて話を聞こうとしませんでした。一人の高校生の信者が聞いてくれましたが、教会ヘイトが爆増して人格を持ち崩してて、私は正直少し後悔しました。

「信じる者は救われる」は真実である理由

 神を信じることで体や精神が劇的に治るという「奇跡」が起きている人は信じがたいですが確かに実在します。
 私とこのブログの読者様にはもう神を信じるよう努力しても奇跡は起きないと思います。
 奇跡が起きるには条件があります。

目  次

 信仰によって身体的に奇跡が起きたという二人について最近思いにふけることがあったのでしたためます。



「信じれば救われる」事例

 聖句の中の「信じれば救われる」という内容の代表例はマルコによる福音書5:25-34でしょう。

 私はこの聖書の物語の内容が紀元前後のパレスチナで実際に起きたんだと豪語するわけではないです。聖書は信用してないです。
 しかしこの物語の女性のような奇跡的な癒しは実際にあり得ます。

「信仰によって救われた」と言う人

末日聖徒イエス・キリスト教会の場合
 私の元婚約者は学生時代にスポーツのし過ぎで腰痛になり、様々な整体に行きましたが治らず。
 末日聖徒イエス・キリスト教会を信仰し、腰痛を和らげてくれるようにとお祈りすることで実際に腰痛が和らぎました。
 腰痛が和らいでくれるのを感謝するように、元婚約者は末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰に強く立ち返りました。
(ついでに信仰心の持てない私を断捨離して、信仰心はあるけれどモラルも生活能力も低い男性と結婚しました。彼女は「信仰を選んだ」と言っていました、この言葉は暗に私への未練も含まれているようにも感じます。現在彼女は末日聖徒イエス・キリスト教会の不活発会員です。不活発会員になるくらいなら私と結婚した方がよかったのに、と時折思います。彼女の存在はこのブログを始める原動力の一つです。ああ、私も結婚がしたい。)

生長の家の場合
 寝たきりのご老婆で医者にも見放されていました。
 しかし生長の家を信仰することで体が起こせるようになるほど回復。
 ご老婆にとって体が動かせるようになるのは奇跡でした。


 実際に信仰をすることによって体が治ったという事例があります。
 病院の医療では治らなかったものが、神への信仰に身をゆだねることによって体が良くなっていったのです。
 これは現代科学では到底説明できない神からの力としか言いようがありません。



「奇跡」は自身の無知と思考放棄によって生まれる

 上文では現代科学では説明できないと載せましたが、いいえ、神への信仰により体が治った事例は科学では説明できないということはないです。私はカルト肯定の記事など書きません。
 皆様がよく耳にしたことがあるプラシーボ効果という言葉で簡単に説明ができます。プラシーボ効果とは、偽物の薬であってもその薬が体にいいと信じることで実際に体が治ってしまう、という効果のことです。
 神を信じれば自分が治ると信じ、実際に神への信仰をする機会に没入するたびに自分がプラシーボ効果により実際に治っていくのです。

マルコによる福音書5:34
 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

 (あくまで私の知る範囲ですが)カルト信者は体が治る、精神が治る当の出来事に出会うとそれを「奇跡」と呼び、大事に証言されます。
 つまりカルト信者はプラシーボ効果という言葉を本当に知らないので、体・心が治ったという(彼らにとって)説明できない素晴らしい出来事は「奇跡」と呼ぶことでしか表現できないのです。それはまるで女子高生が出来事があるたびに言いまくっている「やばい」と同じ感覚で、かなり軽度に使われます。
 しかしもしプラシーボ効果という言葉と意味をカルト信者がしっかり知っていたとしたならば、神への信仰に対して「この信仰はプラシーボ効果のために過ぎない」との疑念が生まれてしまい、神はカルト信者に十分な癒しを与えることができなかったでしょう。
 神からの癒しを充分に受けるには、プラシーボ効果という言葉を学ばず、幼子のように神を純真無垢に信仰していなければなりません。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/general-conference/2011/04/become-as-a-little-child?lang=jpn
 その幼子のような信仰を持つ代償は、カルトは何も語りません。その幼子のような信仰により無知と浮世離れが生じひいては人間性が欠如して人間的に歪になるという代償は、「奇跡」によって支えられている人の前では無粋なのでしょう。
 全知全能の神は確かに信者の精神と体を癒しますが、信者の人間性の欠如を直すことは一切しませんでした。まるで神は自分の信者が人間性のなさで滑稽に問題を起こすのが楽しいので癒しと無知を押し付けてほくそ笑んでいるかのよう。

世界真光文明教団の手かざしについて



その信仰に干渉すべきかどうか

 私(あるいは読者のあなた)は幼子のような信仰により救われている人間を目の前にして、その信仰を「くだらない」と説き伏せて信仰の保護を消して病気に落とすべきか、信仰に触らずにほおっておいて神に救われたままにするべきか。これはかなりセンシティブな問題です。
 カルト信者は信仰の保護がないと生きられないように人間性を殺されています。社会の不安を教え込まれ、世の中を世俗とさげすんでカルト社会に埋没しています。
 そういうカルト信者が信仰の保護をなくして社会で一人前に生きられるのでしょうか。

 いや、遅かれ早かれ社会で一人前に生きなあかんやろ当然や、とは思います。奇跡で体が治っているからとか関係なく、大抵のカルト信者には信仰が誤っていると説き伏せるべきでしょう。しかし信仰がなくなった初めは大失敗するのがあからさまに目に見えているので、独り立ちするまでは可能な限りその脱カルト信者を周りの理解者がフォローすべきだと思います。
 精神に問題があって人間性に欠陥のあるカルト信者の場合は信仰の問題を説き伏せるべきではないのではないかと思います。その精神疾患のカルト信者にとってどの人生が最高の幸せかを考えた場合、そのカルトを信じていることが最高の幸せだと私は考えるからです。



信仰を説き伏せるのは難しい

 カルトの洗脳は根深いです。
 私の元婚約者のカルト信者は私の口では説き伏せられませんでした。
 もしこのブログをもっと早く作り、彼女に見せて、カルトを脱会させられていたら、私は彼女と結婚して普通な幸せを享受できていたのに。このブログを書く時、少しだけそういう思いがよぎります。

 私はなのですが、人が「幸せ」と言っている時は、その幸せという言葉の背景には何が足蹴にされているのかをきちんと聞くことにしていて、その幸せが長い目から見て続くのか道理的に正しいのか判断するようにしています。
 カルト信者の「幸せ」は、世俗にまみれてないから幸せ、という選民意識からくる場合が大半なので、カルト信者の「幸せ」は非社会性の象徴であり、発言した時点でもう手遅れなくらいすでに人間的に持ち崩しています。
 もしあなたに大事な人がいて「カルトにいて幸せ」と澄んだ声で言っているのであれば、その人にこのブログを見せて洗脳を解いてあげてください。

旧統一教会に解散請求を検討している件について思うこと

www.youtube.com
政府は早ければ10月にも東京地裁に解散命令を請求するかどうか検討していることがわかった。(動画より引用)

 山上被告の事件が一年前なのに今更か、と一瞬思ったけれど、いやまあそうだよなぁ、と考えなおしたので、今回その話をば。


あらまし

22年7月08日 ①安倍晋三銃撃事件(元内閣総理大臣
23年4月15日 ②岸田文雄襲撃事件(現内閣総理大臣
23年9月04日 ③旧統一教会解散命令の検討


安倍晋三銃撃事件

 安部元総理が演説中に山上被告に襲撃、ご逝去。
 動機は旧統一教会関係。
 山上被告は犯罪者にもかかわらず英雄視される。

 元にしろ総理大臣が殺害されたので山上被告は内乱罪(国家反逆罪、死刑か無期懲役しかない罪)。
 旧統一教会側はあくまで山上被告が勝手に行った行動であり旧統一教会とは思想的に関わりないと主張。つまり間接正犯じゃないと自己弁護。
 もしこの時点で旧統一教会が少しでも政治に対して非友好的な意見を公表してしまえば間接正犯を無理やり適用して解散させてたのではないでしょうか。


岸田文雄襲撃事件

 岸田総理が演説中に容疑者が襲撃、ご無事。
 動機は不明、容疑者は「弁護士が来てから話す」とのこと。山上被告のように動機を報道すれば英雄視されるとの懸念あり。
 明らかに安倍晋三銃撃事件と酷似。


③旧統一教会解散命令の検討

 安部元総理ご逝去より1年2か月後に旧統一教会解散命令の検討をするというのは察し。
 ②岸田文雄襲撃事件との因果関係は何も記事にされてないけれど、演説中に襲撃されるようになったのは明らかに旧統一教会のせいなんで、政治家からの旧統一教会への恨みつらみはあって当然なんじゃないかと。

他に考えられること
・旧統一教会の重税に耐えかねた山上被告が安部元総理を襲撃した件は旧統一教会は関わりないと言ってたけど弁に無理があるし、というか明らかに関わりあるよね
・岸田現総理襲撃した容疑者の動機ってやっぱ旧統一教会なんじゃないかと疑うよね

 そもそも旧統一教会にとって日本は「エバ国家」であり韓国に奉仕する立場なので無茶ぶりさせるべきだという姿勢を取り続けていたので、そこの所の膿が山上被告になりました。
 政治家にとって旧統一教会は他の神道系の宗教と同等以上に政治活動を手助けしてくれて大いに恩があるのですが、元々の思想からして日本に友好的ではない団体なのと、これ以上に膿を出したら政治にとってまずいのとがあります。なので恩を差し置いてでも旧統一教会は解散に踏み切ろうとしているんだと思います。


統一教会について個人的に思うこと。この宗教はキリスト教じゃない

 キリスト教の歴史の中にあって、民数記を論拠にカトリック教会の神父がインディアン全員に改宗か死を強要して大量虐殺したことなど、大抵の事件は聖書の中に主犯の論拠が載ってます。
 今回の旧統一教会の事件の思想を読み解くのは聖書からでは不可能です。あくまで私の範囲ですが、事件の思想を解くには教祖 韓鶴子の自伝というキリスト教とは直接関係してはない書物を読まなければなりませんでした。
 私から見たら旧統一教会は旧・新約聖書を啓典としているようには感じないので、旧統一教会キリスト教とは認めたくないです。旧統一教会キリスト教の皮を被った別の宗教です。
 旧統一教会によって厭宗教の風潮が強まるのはいいですが、旧統一教会キリスト教だということで厭キリスト教の風潮が強まるのには私は納得できません。(一般人やクリスチャンにとってはキリスト教の歴史なんか知ったことではないので、キリスト教はカルトでやばいよねっていう話に落ち着いちゃうんでしょうけれど)

 今の平和な日本で緩くやっている大半のキリスト教徒は、年に2・3度くらい気が向いたらに教会に行って良い話聞いて募金して帰ってきて、特に戒律もないという環境であり、毒素がないです。そんな毒素のないクリスチャンを「白人が罪もないインディアン虐殺したからお前も極悪人」「旧統一教会が安部元総理を殺したからクリスチャンであるお前も極悪人」「エホバの証人が慢性的に児童虐待してたんでお前も極悪人」と呼ぶのは全くピント外れなのではないでしょうか。
 その緩くやっているキリスト教徒にまで、旧統一教会の仕出かしの余波の厭キリスト教風潮のあおりが迫って来るのは違う気がします。
 このブログの読者にはそこの所の分別は完璧に付いているものだと信じています。

カルト信者を脱しても幸せになり辛い人たち

 カルトに所属する人は、
・心象が全てという主義
・論理の跳躍による自己防衛
 というのがしっかりできています。
 カルトに所属するうちは、この2点がきちんと倫理的にガチガチに守られてるんで、人格が極端に崩れる問題はない。

 下手に説得して仮にカルトを脱したとして、彼の論理を変えたわけではなく、あくまで情を逆撫でしてカルトが気持ち悪いと分からせただけで、彼の論理でカルトを脱したわけではない。
・心象が全てという主義
・論理の跳躍による自己防衛
 この2点の傾向がまだある状態でカルト所属という意識だけを外すと、当然のこと倫理的なところから外れ始め、ひいて人格的に持ち崩して、世渡り下手で利己的な人間になりやすい。
 きちんとこの2点をしっかり是正する必要があった。私はまだカルトの根深さを軽く見すぎてた。

 カルトに所属していた頃は面倒みよかった愛情深かった人間が、カルトから外れたら他人の気持ちを考える心の余裕のない世渡り下手な人間になることがあった。
 正直後悔してる。カルト舐めてた。

信者はどうすれば宗教から抜け出せるのか

 信者が自宗教を適切に疑問に思い、宗教との共依存関係を断ち切らなければならないのですが、信者は自宗教を疑問視しないよう訓練されているので、かなり根気よく適切に宗教の全体像について教えて、自宗教のマインドコントロールを少しずつ解いていかなければなりません。


目  次


宗教は信者に不安を教える

 宗教は信者に人生のあらゆる不安を教えます。
 対して信者は、その人生の不安を宗教によって解消しようとあがきますが、宗教ビジネスの都合上信者の不安が晴れてはならないので、信者の不安は晴れません。死後に不安がはれるという宗教からの弁を信じて生涯を過ごしますが、その信者の人生は宗教による現実的ではない不安で食いつぶされます。


信者は宗教にどう人生を食いつぶされているのか

 普通の人は成長するにつれて、他人との適切な付き合いを覚えて、技能に敬意を払うようになり、性との適切な距離感を学んでいき、清濁含めて他人の人生を見・他人と比べて自分はかくあるべしと自分の人生を作り上げられるようになります。
 信者は宗教から人生の不安を提示され続けることで、一般的な他人は怖いので適切な距離が分からなくなり、経典を重視してしまい技能に敬意を払うリソースが薄くなったり、他人は性欲などないと思い込んで性に対して潔癖を持ってしまって異性と適切な距離感が取れなくなったりしてしまったりし、他人が適切には分からないため社会的な部分に生きる自分を適切に作ることができなくなったりします。全員がこの例に当てはまる訳ではないですが、おおむねこうなっています。

 宗教は確かに信者の人間性を殺しています。また、信者は宗教が信者の人間性を殺し続けている構造に気付きません。
 つまり信者は自分を不安にさせるために宗教に通い続け、自分の人間性が殺され続けていることに感謝をし、自分のような不安型の人間を一人でも多く作るために宗教にお金を払ったり布教活動を行ったりしていることになります。

 信者は自分の宗教を適切に理解して宗教者になれるかどうかなのですが、これは難しいと私は感じています。
 私が末日聖徒イエス・キリスト教会に通っていた頃に、なぜ自宗教が信者の人間性を殺し続けているのに誰も何も疑問に思わないのかという内容を、きちんと段取り持って詳細に親しい信者に話しました。しかし信者の誰も私の話をろくに聞きはしませんでした。代わりに(会ったこともない)イエス・キリストや神様がどのように素晴らしいかを浅く語って、信じることで救われているのだといいました。その信者はもちろん、パレスチナ(聖地イスラエル)で神がユダヤ教徒キリスト教徒・イスラム教徒に異なる啓示を与えて盛大に殺し合わせていた歴史を知らないので、イエス・キリストと神様の存在が歴史の中でどのようにセンシティブな立ち位置にいるのかは全く知りません。宗教が教えるままの純真な信者であり、宗教者ではありません。
 私が何を言おうと信者には自宗教に疑念を抱かせるのは難しく、信者でいる限りは、正しく宗教を理解して宗教者にステップアップすることはほぼないです。




人間性が熟すると、
他人を適切に成長させるために適切に怒ったり悲しんだりできます。
他人からしたら、自分を思ってくれる良い人だと感じることでしょう。

信者は喜怒哀楽の基準を自宗教に委ねており、人間性が熟しにくいため、
自分が何となく気分を害されたから怒るという次元の人間も居たり、
自分を受け入れて欲しいという欲が強くて宗教知識マウントを取ったり、
他人を成長させるために怒ったり悲しんだりするも宗教基準なので浮世離れした怒り方と悲しみ方をして他人から疑問に思われたりされます。
他人からしたら信者は気のふれた人間だと感じます。

エホバの証人の輸血拒否問題について

 Twitterで現在、エホバの証人の輸血拒否問題が騒がれています。
 エホバの証人では信者に輸血は拒否すべきだという旨の教義を教えていました。しかし安倍晋三銃撃事件があり、宗教二世が自宗教を嫌がっていたら保護するという旨のガイドライン厚生労働省が作成し各カルト宗教に圧力、政府のターゲットは主に統一教会だったのですが今回エホバの証人にも注力、解散命令を恐れたのかエホバの証人が「輸血を信者に強制はしてない」との見解を出してTV報道になり、エホバの証人の信者は「いや輸血の話はめっちゃ教義だったし小冊子で輸血拒否で死んだ人を美談にして、あなたも輸血拒否して信心深く死ねたら最高みたいなこと言うてたやん」とツッコミしました。

Twitterでのコメント(タップ)

 さてエホバの証人の教義であった輸血拒否とは一体何であったのか。
 当ブログの見解としては、輸血拒否の教義は聖書の歪なモダン化によって生まれたものであり、現代日本人には全く守る意味のない無駄な教義だと結論付けます。


エホバの証人の輸血拒否問題について

 1984年のアメリカで起こったデュー事件はエホバの証人の輸血拒否問題の代表例として知られています。
 この事件では13歳の少女が腎臓移植の手術中に大出血を起こし、輸血が必要な状況に陥りました。しかし少女の両親はエホバの証人の信仰に基づき、少女への輸血を拒否しました。医師は少女の両親に対し、輸血を行わなければ少女が死亡する事実を伝えましたが、両親は頑なに輸血を拒否し、少女は死亡しました。
 この事件はエホバの証人の輸血拒否の教義が狂気を孕んでいるということを示す例として広く報道されました。この事件をきっかけにアメリカでは、未成年者が輸血を拒否する権利に関する法律が制定されるなど、医療倫理や法的な問題を引き起こしました。
 エホバの証人はデュー事件の少女含む輸血拒否で亡くなった若者たちを、エホバの証人の小冊子『神を第一にした若者たち』などで信仰を立派に示した者達として紹介。信者はこれを支持。輸血拒否の教義は未だにエホバの証人の信者の間で支持され続けています。


輸血拒否の教義が生まれた原因:キリスト教の教義は形骸化されている

 聖書は紀元前後に中東の思想家が宗教・思想・性が混沌とした自国民へ向けて神の言葉という建前を使って書いた書物です。聖書は現代の人々に向けて書かれた書物ではありませんが、熱狂的に聖書を支持する人によって教義のモダン化が行われました。その過程で聖句の一部を拡大解釈して聖書にない教義が生まれました。
 エホバの証人の輸血拒否の教義は聖句の一部を拡大解釈した末に生まれました。

エホバの証人が輸血禁止の根拠にしている聖句(タップ)  今回聖書を引用するにあたって、正確な情報を期すため、一般的な『聖書』とエホバの証人の使う『新世界訳聖書』を同時に引用します。
 新世界訳聖書は、エホバの証人が独自に翻訳・出版している聖書です。エホバの証人は原典にできるだけ忠実に聖書を翻訳していると主張していますが、新世界訳聖書がエホバの証人の教義に合わせて一部の箇所で意訳されているという指摘がされています。
聖句一般的に読み取れる内容
創世記
9:3-4
3 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
4 しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。

■新世界訳聖書
3 生きている動物はどれも食物にしてよい。緑の草木と同じように,それら全てをあなたたちに与える。
4 ただし,血を含む肉を食べてはならない。血は命だからである。

動物は食べてもいいけれど血を含んだ肉を食べてはいけない。

新世界訳では、血は命を含んでいて特別なものだというニュアンスが深い。

レビ記
17:10-14
10 イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。
11 肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
12 このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。
13 イスラエルの人々のうち、またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち、だれでも、食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は、その血を注ぎ出し、土でこれをおおわなければならない。
14 すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

■新世界訳聖書
10 イスラエルの民や,あなたたちの間に住んでいる外国人の誰かが,何らかの血を食べるなら,私は血を食べているその人に必ず厳しい顔を向け,その人を民の中から除く。
11 生き物の命は血の内にあるからであり,私がそれをあなたたちに与え,自分たちのために祭壇で贖罪を行えるようにした。血が,その内にある命によって贖罪を行うからである。
12 それで私はイスラエル人に言った。「あなたたちのうちの誰も血を食べてはならない。あなたたちの間に住んでいる外国人も血を食べてはならない」。
13 イスラエル人やあなたたちの間に住んでいる外国人が狩りをしていて,食べてよい野生動物や鳥を捕まえた場合,その血を注ぎ出して土で覆わなければならない。
14 あらゆる生き物の命はその血であり,命が血の内にあるのである。そのため私はイスラエル人にこう言った。「どんな生き物の血も食べてはならない。あらゆる生き物の命はその血だからである。血を食べる人は皆,除かれる」。

イスラエル人とクリスチャンは血を含んだ肉を食べてはいけない。血抜きしたら食べていい。

新世界訳聖書も同様の内容。

使徒行伝
15:19-21
19 そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。
20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。
21 古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。

■新世界訳聖書
19 ですから,私の決定は,神を崇拝するようになる異国の人々を煩わさず,
20 偶像によって汚された物と性的不道徳と絞め殺された動物と血を避けるよう書き送ることです。
21 モーセの書は安息日ごとに会堂で朗読されていて,それを教える人が昔からどの町にもいます」。

ヤコブギリシャ都市アンテオケの人々に向けて、こう生活して欲しいという要望を手紙を書いて送る。
その要望の一つに「血を避けるように」がある。
文脈的には、血を飲むというよりかは、人殺しを避けるという意図の方が強く感じる。

新世界訳聖書も同様の内容。

 エホバの証人が輸血拒否の根拠にしている聖句は「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」「使徒行伝15:19-21」です。その内「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」は血抜きせずに肉を食べてはいけないという内容です。
 肉を血抜きする意図は、肉は血抜きしないと臭くて食えないのと、血に雑菌が繁殖しているから血を飲んだら病気になる可能性があるのとがあります。
 くどいようですが、聖書は中東の人に向けて書かれた書物です。中東は年中蒸し暑い地方なので、血抜きしていない肉は雑菌が繁殖しやすくて危険です。血抜きしていない肉を食べて食当たりで亡くなる人が多かったのでしょう、日本で言う食品衛生法のように聖書に「神が血抜きしてない肉を食べるなと言ってたんで守れよ」と加えたのだと推察できます。

余談。ユダヤ教・イスラム教での食品衛生について(タップ)
 ユダヤ教では旧約聖書を根拠にして「カシュルート(適正食品規定)」を定め、血液を食べてはいけないとしています。
 イスラム教では独自の衛星基準「ハラール認証」を定め、血液を食べてはいけないとしています。
 ユダヤ教イスラム教どちらも中東という熱い地方で流行った宗教です。血抜きせずに肉を食べるのは雑菌を食べるのと同じで危険なので、食品衛生の観点で「カシュルート」「ハラール認証」の両方で血液を食べてはいけないことになっていると推察できます。

 「使徒行伝15:19-21」で使われる「血」は食べてはいけないというよりかは殺し合いで血を浴びるようなことがあってはならないという文脈になっています。

使徒行伝15:20
ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。

 エホバの証人は「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」「使徒行伝15:19-21」を根拠にして、
・血液は神聖なもので、血液を摂取するのは神への冒涜行為であり信仰上の罪になる。
・輸血には病原体の流入や輸血不適合反応や合併症のリスクがある。
 としています。信者は輸血を拒否することで信仰と道徳的価値観を守ることができるそうです。

 エホバの証人は輸血拒否を教義としましたが、これは聖句の持つ本来の趣旨とは明らかに違います。エホバの証人指導者が自宗教の教義を考える際に聖句を無理やりモダンにするために拡大解釈した結果がこの輸血拒否の教義になったのだと思われます。
 なぜこんな聖句と乖離している教義を信者が盲信し続けたのか。キリスト教全般に共通する傾向として、信者は教義や儀式に対して固執し、何の疑問を持つことなく従う(運用する)ことが美徳とされます。このような信仰を「幼子のような信仰」と表現することもあります。教義や儀式に疑問を持つこと、つまりは教義や儀式の持つ本来の意味に気づいて守る価値のない教義・儀式だと他の会員に吹聴してしまうことは教会の運用に支障を来たすので、そういう人を作らないよう、疑問を持つ人は背教者として教会から攻撃される対象になるのだと教会の中で教えて予防線を張っています。また同時に、教会は無批判に愚直に教義や儀式を守り続けるのが美徳なのだと信者には説き、信者もその通りにします。教義や儀式の本来の意味を理解している人は教会内にはいませんし、教会運用上作ってはいけません。エホバの証人の信者が聖句の持つ本来の意味を理解しようとせず、エホバの証人の教義を鵜呑みにし続けるのはこういった理由からです。

 エホバの証人含めキリスト教をされている方々には、教会以外の場所できちんと聖書と中東の歴史を勉強して、適切にキリスト教を語れるようになってほしいです。

厚生労働省の宗教二世へのガイドラインについて。「政教分離」を誤解してました

 今まで「政教分離」の法の元で政治と宗教は不干渉だったのに、厚生労働省の出した宗教二世のガイドラインは宗教の動向を監視するものであり、今回のガイドラインは「政教分離」破ってるけれど法律違反じゃないか。
 と思いましたが「政教分離」の法をよくよく見るとガイドラインは法破ってませんでした。


政教分離について

 故・安倍元総理の国葬が宗教色を取り入れなかった理由は政教分離してるからでした。
 政教分離とは大雑把に言えば宗教と政治の機能が交ることなく独立して運営されることで、宗教的思想に寄らず人情に則って公正に政治国家を運用している日本を一言で言い表せる言葉です。外国の人に日本を紹介する際によく使われる言葉ですね。
政教分離」とは
以下の二つの法令を指して「政教分離」と言われる
憲法20条1項「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」
憲法20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」
要約
①宗教団体は国から優遇されてはならない。
②宗教団体の利益のために政治の権力を使ってはいけない。
③国を代表する機関(省庁、県庁等)は宗教教育や活動をしてはいけない。
 故・安倍元総理は政治活動中にご逝去されたので政治の元で葬儀を執り行うことになり、その葬儀に宗教色を入れるのは上記政教分離要約①②③全部に触れてしまうので無宗教形式で執り行われました。
 故・安倍元総理は統一教会に対してエールを送るビデオを撮って渡してました。「元」総理にしろ政治的発言力を明らかに行使しているので②宗教団体の利益のために政治の権力を使っていることになり、違反してますね。故・安倍元総理、政教分離破ってるやないか、おいおい。


厚生労働省が宗教二世へのガイドラインを出した件について思うこと

 厚生労働省が宗教二世へのガイドラインを作成して児童相談所自治体に配布しました。
www.yomiuri.co.jp
 脱会した旧統一教会信者・エホバの証人信者の助力でガイドラインが作られたそうです。

私の政教分離の誤解

 あれ? そういや日本は政教分離だから厚生労働省が宗教教育を取り締まるのはそもそも法律違反になるんじゃないかな。改正したのかな。と思って政教分離を調べました。
上記「政教分離」要約より
①宗教団体は国から優遇されてはならない。
②宗教団体の利益のために政治の権力を使ってはいけない。
③国を代表する機関(省庁、県庁等)は宗教教育や活動をしてはいけない。
 厚生労働省ガイドライン出して宗教教育取り締まる件は法律違反にはなっていませんでした。③は国が宗教教育に加担してはならないというだけで、宗教教育を取り締まるという所は法律にないんですね。正直今まで誤解してました。

政治が宗教の「地獄」観を否定

 個人的にここが一番ヤバいと思いました。
 ガイドライン心理的虐待の所に、
・「地獄に落ちる」と脅して宗教活動への参加を強要
 とあります。
 このガイドラインを満たして相談してくる二世信者は下記の条件を持っていると思われます。
・自身が宗教の二世以降である。
・教義に地獄の存在がある。
・宗教活動をすることがある。
・宗教活動を誘ってくる信者に嫌気が差している。
 二世が宗教から「地獄に落ちる」と脅されて強要されたと感じる部分はあくまでも二世信者の心象に寄ります。例えば仕事・勉強で心の余裕がない時にお寺の餅つき等の宗教行事に勧誘されたなら、「自身が宗教二世である」「教義に地獄が入っている」「宗教活動を強要された」でガイドライン違反になります。あからさまに成立条件が緩いです。反抗期の子供がいれば毎日ガイドライン違反になりますね。
 全宗教が地獄の存在を使って教義を立てているので、実質、全宗教がターゲット圏内に入っています。やべえ。
 厚生労働省ガイドラインを違反した宗教には行政指導に躊躇せず踏み切ると明言しています。二世信者を抱える日本全土の宗教は潰す、高齢の一世信者だけを抱えてゆっくり消えていけ、という意思を感じ取れます。凄まじいガイドラインができましたね。
 神道では生き神だけど今は「日本の象徴」という位置づけの一般人である天皇をニュースで取り上げるのは、神道信者にとっては公的機関による宗教放送になるので政教分離的にはどうなのか。戦中に神道でフィーバーしてたこともあるし、戦中世代の人達が生きている間はその人たちのために、神道に対しては政教分離は見逃されているんじゃないかと以前から言われていました。(ここは厳密には政教分離には差しさわりないです。厚生労働省はテレビ局を指導してはいますが国を代表する機関としてテレビ局を運営しているわけではないので、テレビ報道は政治とは関係せず、政教分離には差しさわりないです)
 しかし今件の凄まじいガイドラインでは神道も明らかにターゲット圏内です。ヤバいですね。

 今件のガイドラインが作られた原因は統一教会が政治活動の邪魔になると政治家が判断したからです。統一教会の角を潰して、ついでにエホバの角を潰して、政治活動に差し障りなくしようという目的があります。政府がその目的を脱してガイドラインの拡大解釈に勤しんで本当に日本に在住する全宗教をぶっ潰しにかかるかどうか。今後の動向が楽しみです。

余談。22年10月ごろからの政策

https://www.mhlw.go.jp/content/000998855.pdf