脱キリスト教カルトの会

キリスト教系カルトに苦しむ人が人生を取り戻すためのブログです

聖書勉強の問題

 クリスチャンは日曜などに教会に行き、聖書を勉強します。
 どのようなことを学んでいるのでしょうか。



 基本的にクリスチャンは聖書に異常なほど疑問を持ちません。

・国家資格の分厚い本であっても学び尽くせばもう読む必要はないのに、なぜクリスチャンと呼ばれる人々は新約・旧約聖書を延々と読み続けるのだろうか。読んで学んでいるつもりで、実は全く学びが深くなっていないのではないか。
・善人の代表例であるキリストになるために聖書勉強を続けているのに、自分はなぜキリストのように水の上を歩けるようにならないのだろうか。自分の教会ではキリストのように水を歩ける人間は今まで一人もいなかったので聖書勉強はキリストになるための方法としては間違いではないのではないか。周りのクリスチャンが寿命で亡くなったけれどキリストのような超人ではなくただの間違いのある普通の人だったので、聖書勉強は意味がないのではないか。
・聖書の舞台は中東で、聖書の訓戒は中東の人に向けた訓戒なのだけれど、日本人である自分には関係ないのではないか。というか自分は聖書からしたら異邦人であり、野蛮な人間扱いであり、馬鹿にされてはいまいか。また、自分は中東の人ほど性に奔放ではなく、未認知の子を奴隷として売り買いするような非常な人間でもないため、聖書からしたら倫理的に高く、中東の人を矯正するための聖書の訓戒を真に受けるのは過剰過ぎはしないか。
・今読んでいる成句の主語は神なのかキリストなのか善人なのか悪人なのか。

 聖書を読んでいて当然思うであろう上記の疑問をクリスチャンは一生涯気付きはしません。


 実際の聖書勉強は教会のケーススタディに沿って行われます。人生の問題の中で、聖書の一文を引用して自分の人生はかくあるべし、と教会の教理を学んでいきます。聖書はあくまでも添え物です。
 教会は純真な信者が欲しいです。なので純真な信者を作るのに都合の悪い出来事は教会はクリスチャンに知らせません。聖書の訓戒が中東の人に向けたものである事実や、自分が異邦人として馬鹿にされている事実や、半魚人のダゴンとか処女以外が背中に乗ったら殺す馬のユニコーンとか海の猛獣のリバイアサンとかいう明らかに現実に存在しない生き物が聖書の中で生息している事実や、ユダヤ教キリスト教イスラム教で共通する神が信者に異なる啓示を与えて殺し合わせている事実や、エリコの大虐殺(ヨシュア記6章12~24節)を論拠にクリスチャンが大量虐殺してきた歴史やを、今のクリスチャンは教会から教わっていないです。教会側がそれらを知らないから信者にそれらを教えられないというわけではないです、そこまで教会は馬鹿ではないと信者ならわかります。ただ、それらが教会にとって、信者に「純真な信者」というキャラクターを植え付けるための材料に相応しくないと判断しているからあえてなかったことにしているのです。
 教会のケーススタディに従うのに充実感を持って、その充実感を自分の意見を持っている証拠だと勘違いするクリスチャンが多いです。実際は教会の意見を植え付けられて盲信しているだけなのですが、この教会を妄信するという滅私の精神が信者間で評価されます。クリスチャン特有の安心しきった純粋無垢な性格はここからきています。
 クリスチャンは聖書を勉強しているようで実際は全く勉強してなくて、教会のケーススタディを勉強しています。しかしクリスチャンは本当に聖書を勉強したつもりになっています。その欺瞞に気付けないのは、単に思慮が足らないのもあるでしょうが、クリスチャンは教会のケーススタディに心酔して、教会が自分の人生に必要だと思い込んでいるからなのでしょう。しかしいくら教会を心酔して信者から多大な評価を得たとしても、教会から社会に必要な仕事術や資格検定を学べるわけではないので一人前の人間として社会貢献していくことはできず、そのままでは生きることすらままなりません。教会のケーススタディはあくまでもその教会の信者という性格をクリスチャンに植え付けるためのものです。


 紀元前後の中東に住む一部の倫理的に最低な人たちを矯正するために、中東の各地で神の言葉という建前を使って書かれた書物が聖書です。
 当時の中東の人々の問題は、一部の人々が性に奔放で無暗に子供を作りまくったり、子供が両親に認知されなければ奴隷として働かされたり、暴力賛歌の文化があって奴隷同士を殺し合わせたりというのがありました。
 こういった中東の人たちを矯正するためにはかなり厳しい言葉を聖書に書く必要がありました。これがキリスト教の中に残る強烈なNot教育の原因です。
 キリスト教が流行った理由は聖書のNot教育が性に奔放で無常な人が時たまいる諸外国にフィットしたのも一因じゃないかと思います。

 諸外国から見て現代の日本人は性に厳しく(大抵の外国は一番の娯楽が性交渉だけれど日本は食事)、性格が良い(大抵の外国は街中で寝ている人の財布を奪うけれど日本は奪わない)ため、倫理的には非常に高いです。
 その日本人が聖書の中にある強烈なNot教育を受けるのは明らかに過剰です。必要以上に性を忌避してしまって人間関係の中にある性の価値観に対して潔癖症を起こして角の立つ言動をしてしまったり、異性との恋愛で性とどう付き合っていいのかわからず恋愛が上手くいかなかったり、仕事の業務に必要以上に潔癖を起こして仕事がままならなくなって仕事仲間からはぶられたり、などの問題を引き起こす可能性が高いです。もし問題を起こさずとも、人として付き合いづらいのには変わりがないと思います。


 聖書勉強とは聖書の内容を吟味して昔のパレスチナあたりの史実への理解を深めることではなく、教会の自己啓発セミナーで洗脳されることだった。聖書を全く勉強できてないけれど、当人は自信満々で聖書を勉強してるつもりになっています。なぜ。
 聖書に描かれている争いごと絶えない中東の人へ向けた厳しい訓戒を平和な日本人が受けると変人になる。そりゃそうだ。



やっかいなのは、何も知らないことではない。
実際は知らないのに、知っていると思い込んでいることだ。
What gets us into trouble is not what we don’t know.
It’s what we know for sure that just ain’t so.
マーク・トウェイン
 クリスチャンは聖書を教会から学ぶのをやめるべきです。適切に聖書を評価するために、聖書の背景である中東の歴史を理解して、クリスチャンの引き起こしてきたアメリカ人の歴史を学び、聖書がどう世の中を動かしてきたのかを理解すべきです。
 クリスチャンにはキリスト教徒としてではなく、宗教を学ぶ者として聖書を語れるようになって欲しいです。