脱キリスト教カルトの会

キリスト教系カルトに苦しむ人が人生を取り戻すためのブログです

「信じる者は救われる」は真実である理由

 神を信じることで体や精神が劇的に治るという「奇跡」が起きている人は信じがたいですが確かに実在します。
 私とこのブログの読者様にはもう神を信じるよう努力しても奇跡は起きないと思います。
 奇跡が起きるには条件があります。

目  次

 信仰によって身体的に奇跡が起きたという二人について最近思いにふけることがあったのでしたためます。



「信じれば救われる」事例

 聖句の中の「信じれば救われる」という内容の代表例はマルコによる福音書5:25-34でしょう。

 私はこの聖書の物語の内容が紀元前後のパレスチナで実際に起きたんだと豪語するわけではないです。聖書は信用してないです。
 しかしこの物語の女性のような奇跡的な癒しは実際にあり得ます。

「信仰によって救われた」と言う人

末日聖徒イエス・キリスト教会の場合
 私の元婚約者は学生時代にスポーツのし過ぎで腰痛になり、様々な整体に行きましたが治らず。
 末日聖徒イエス・キリスト教会を信仰し、腰痛を和らげてくれるようにとお祈りすることで実際に腰痛が和らぎました。
 腰痛が和らいでくれるのを感謝するように、元婚約者は末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰に強く立ち返りました。
(ついでに信仰心の持てない私を断捨離して、信仰心はあるけれどモラルも生活能力も低い男性と結婚しました。彼女は「信仰を選んだ」と言っていました、この言葉は暗に私への未練も含まれているようにも感じます。現在彼女は末日聖徒イエス・キリスト教会の不活発会員です。不活発会員になるくらいなら私と結婚した方がよかったのに、と時折思います。彼女の存在はこのブログを始める原動力の一つです。ああ、私も結婚がしたい。)

生長の家の場合
 寝たきりのご老婆で医者にも見放されていました。
 しかし生長の家を信仰することで体が起こせるようになるほど回復。
 ご老婆にとって体が動かせるようになるのは奇跡でした。


 実際に信仰をすることによって体が治ったという事例があります。
 病院の医療では治らなかったものが、神への信仰に身をゆだねることによって体が良くなっていったのです。
 これは現代科学では到底説明できない神からの力としか言いようがありません。



「奇跡」は自身の無知と思考放棄によって生まれる

 上文では現代科学では説明できないと載せましたが、いいえ、神への信仰により体が治った事例は科学では説明できないということはないです。私はカルト肯定の記事など書きません。
 皆様がよく耳にしたことがあるプラシーボ効果という言葉で簡単に説明ができます。プラシーボ効果とは、偽物の薬であってもその薬が体にいいと信じることで実際に体が治ってしまう、という効果のことです。
 神を信じれば自分が治ると信じ、実際に神への信仰をする機会に没入するたびに自分がプラシーボ効果により実際に治っていくのです。

マルコによる福音書5:34
 イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

 (あくまで私の知る範囲ですが)カルト信者は体が治る、精神が治る当の出来事に出会うとそれを「奇跡」と呼び、大事に証言されます。
 つまりカルト信者はプラシーボ効果という言葉を本当に知らないので、体・心が治ったという(彼らにとって)説明できない素晴らしい出来事は「奇跡」と呼ぶことでしか表現できないのです。それはまるで女子高生が出来事があるたびに言いまくっている「やばい」と同じ感覚で、かなり軽度に使われます。
 しかしもしプラシーボ効果という言葉と意味をカルト信者がしっかり知っていたとしたならば、神への信仰に対して「この信仰はプラシーボ効果のために過ぎない」との疑念が生まれてしまい、神はカルト信者に十分な癒しを与えることができなかったでしょう。
 神からの癒しを充分に受けるには、プラシーボ効果という言葉を学ばず、幼子のように神を純真無垢に信仰していなければなりません。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/general-conference/2011/04/become-as-a-little-child?lang=jpn
 その幼子のような信仰を持つ代償は、カルトは何も語りません。その幼子のような信仰により無知と浮世離れが生じひいては人間性が欠如して人間的に歪になるという代償は、「奇跡」によって支えられている人の前では無粋なのでしょう。
 全知全能の神は確かに信者の精神と体を癒しますが、信者の人間性の欠如を直すことは一切しませんでした。まるで神は自分の信者が人間性のなさで滑稽に問題を起こすのが楽しいので癒しと無知を押し付けてほくそ笑んでいるかのよう。

世界真光文明教団の手かざしについて



その信仰に干渉すべきかどうか

 私(あるいは読者のあなた)は幼子のような信仰により救われている人間を目の前にして、その信仰を「くだらない」と説き伏せて信仰の保護を消して病気に落とすべきか、信仰に触らずにほおっておいて神に救われたままにするべきか。これはかなりセンシティブな問題です。
 カルト信者は信仰の保護がないと生きられないように人間性を殺されています。社会の不安を教え込まれ、世の中を世俗とさげすんでカルト社会に埋没しています。
 そういうカルト信者が信仰の保護をなくして社会で一人前に生きられるのでしょうか。

 いや、遅かれ早かれ社会で一人前に生きなあかんやろ当然や、とは思います。奇跡で体が治っているからとか関係なく、大抵のカルト信者には信仰が誤っていると説き伏せるべきでしょう。しかし信仰がなくなった初めは大失敗するのがあからさまに目に見えているので、独り立ちするまでは可能な限りその脱カルト信者を周りの理解者がフォローすべきだと思います。
 精神に問題があって人間性に欠陥のあるカルト信者の場合は信仰の問題を説き伏せるべきではないのではないかと思います。その精神疾患のカルト信者にとってどの人生が最高の幸せかを考えた場合、そのカルトを信じていることが最高の幸せだと私は考えるからです。



信仰を説き伏せるのは難しい

 カルトの洗脳は根深いです。
 私の元婚約者のカルト信者は私の口では説き伏せられませんでした。
 もしこのブログをもっと早く作り、彼女に見せて、カルトを脱会させられていたら、私は彼女と結婚して普通な幸せを享受できていたのに。このブログを書く時、少しだけそういう思いがよぎります。

 私はなのですが、人が「幸せ」と言っている時は、その幸せという言葉の背景には何が足蹴にされているのかをきちんと聞くことにしていて、その幸せが長い目から見て続くのか道理的に正しいのか判断するようにしています。
 カルト信者の「幸せ」は、世俗にまみれてないから幸せ、という選民意識からくる場合が大半なので、カルト信者の「幸せ」は非社会性の象徴であり、発言した時点でもう手遅れなくらいすでに人間的に持ち崩しています。
 もしあなたに大事な人がいて「カルトにいて幸せ」と澄んだ声で言っているのであれば、その人にこのブログを見せて洗脳を解いてあげてください。