脱キリスト教カルトの会

キリスト教系カルトに苦しむ人が人生を取り戻すためのブログです

末日聖徒イエス・キリスト教会の動画「神の御心」よりカルト要素解説

末日聖徒イエス・キリスト教会提供ビデオ「神の御心」

www.youtube.com
スマホアプリ『福音ライブラリ』>「ビデオと画像」>「霊感を与えるメッセージ」>「神の御心」

 一般人には始終全く意味不明な内容ですが、会員には意味の通る内容です。
 カルトの洗脳技法「トンネル」を動画内で分かりやすく盛り込んでいます。「トンネル」は社会や世間体との交流を遮断させ、視野を教団のみに集中させて突き動かす効果があります。


私がこの動画に出会ったきっかけ

私の伝道経験など(タップ) 私が末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師として神戸伝導部で伝道していた頃にディストリクトリーダー(その地域の宣教師を管理する人)からこちらのビデオ「神の御心」をご紹介いただきました。私自身が宣教師というキャラに成れなかったのを見て、宣教師になり切って欲しいという親切心で「神の御心」を見せてくれたのだと思います。
 私は動画を拝見しましたが、私が具体的に何を学べばいいのか全くわからないし意味が分からないとディストリクトリーダーに伝えました。ディストリクトリーダーは意図しない答えに微妙な顔をしていました。
 そんなこんなで、私という人間は自分で言うのもなんですがモラリストで指示に従順で聖書にも精通していて自分の心に素直な一般人なのですが、素直すぎて当時の伝道部会長ともめて、私の伝道の任期は3ヶ月で終わりました。その3ヶ月のごたごたを彩る一色としてこの動画があります。

 読者のあなたはこの動画を通して末日聖徒イエス・キリスト教会の会員が日曜にどんなふわっとした物語を普段聞いているのかがなんとなくわかると思います。
 このふわっとした内容の動画を私がどのように感じているのか、下記から少しでも分かっていただけたら嬉しいです。ついでに私が日曜日に教会に行き続けた日々が私にどれほど合わなくて苦痛であったのか想像してくださるとありがたいです。

動画のカルト手法

動画で使われているカルト手法
・「トンネル」:社会や世間体との交流を遮断、視野を教団のみに集中させて突き動かす。教団離反者を攻撃することでより教団に集中させる。視野狭窄効果・教化効果がある。

動画要約
・世間や自身の考えを排してLDSの意見を行わなければならない。
・主体的にLDSの教えを学び従う。
・人生の主体はLDSである。

末日聖徒イエス・キリスト教会の別称
・モルモン
・LDS(The Church of Jesus Christ of "Latter-day Saints")

解説



動画内容:末日聖徒イエス・キリスト教会の教え 末日聖徒イエス・キリスト教会のカルト洗脳手法の解説
 天の御父の大きな期待に応えるために必要な心構えと行動についてお話ししたいと思います。
 それは御父が軌道修正してくださるのを喜んで受け、さらにそれを求めることです。
 「天の御父の大きな期待」:LDSの教義が大義であり、自身の意見を超越したものだという意識を植え付ける。

「それは御父が軌道修正してくださるのを喜んで受け、さらにそれを求めることです」:信者は自身の意見を排してLDSの意見を喜んで学んで従うべきだと暗に示している。
 ヒュー・B・ブラン長老は何年も前にカナダで荒れ放題となっていた農場を購入した時のことを語っています。
 農場整備し修繕していた時に1.8メートルほどまで成長しながら実を付けていないスグリの木を見つけました。そこで幹だけを残して大胆に枝を切り落としました。
 枝の切り口には涙がたまっているように見えました。スグリの木が泣いていて、その声が聞こえたような気がしました。
 LDS本部からの教育は頻繁にたとえ話を多用する。これはイエス・キリストが賢くない人々を諭すためにたとえ話を用いたという故事に由来する。(マタイ13:10-13)
「あなたはどうしてこのようなことをなさるのですか? 私は十分成長してきたのに、あなたは私を切ってしまいました。庭の木はみんな私を見下すでしょう。
 どうしてあなたはこのようなことを私になさるのですか? 私はあなたがここの庭師だと思っていたのに」
「あなたはどうしてこのようなことをなさるのですか?」:LDSの無茶な教えも受け入れるよう強要。

「私は十分成長してきたのに、あなたは私を切ってしまいました」:LDS信仰で精神退行する場合がある事実の提示。

「庭の木はみんな私を見下すでしょう」からの流れ:LDSの教えで周りから非難されることがあってもLDSを信じるよう強要。
「かわいいスグリの木よ、私はここの庭師だ。私はお前にどのような木になって欲しいか知っている。果実や木陰を作る木ではなく、スグリの木になって欲しいのだ。
 いつかお前がたくさんの実を付ける時言うだろう。「庭師よ本当にありがとうございます。 愛ゆえにに枝を切ってくださったのですね」」
「私はここの庭師だ。私はお前にどのような木になって欲しいか知っている。」:自身の理解を超えたLDSの大義を信じるべきだと提示。

「いつかお前がたくさんの実を付ける時言うだろう。「庭師よ本当にありがとうございます。 愛ゆえにに枝を切ってくださったのですね」」:LDSには愛があるという刷り込み。
 それから数年後、ブラウン長老は大将に昇進する機会が来て、資格があったにもかかわらず、モルモンであるために昇進を認められませんでした。
 ブラウン長老はお話を続けています。 汽車に乗り街へと引き返しました。 私の心はひどく傷つき苦々しさばかりが残っていました。テントに付いた私は帽子をベッドの上に投げつけました。拳を天に向かって振り上げ叫びました。
「神よあなたはどうしてこのようなことをなさるのですか! あれほど努力してきたのにどうしてこのようなことをなさるのですか!」
「ブラウン長老は……モルモンであるために昇進を認められませんでした」:LDSの信者をしていると昇進を認められないなどの弊害があるという事実の提示。
 その時、私自身の声が聞こえてきました。
「私はここの庭師だ。私はお前にどのような木になって欲しいか知っている」
 心の中から苦々しさが消えていきました。私はベッドの脇にひざまずき心に抱いた不敬の念に許しを請い求めました。
「私はここの庭師だ~」:自身のLDS信仰による社会との摩擦はLDSの教えに従うためにあると提示。

「心の中から苦々しさが消えていきました。私はベッドの脇にひざまずき心に抱いた不敬の念に許しを請い求めました」:LDSの教義は真摯に受け止めるべきだという模範例。心の中の苦々しさの解消の下りはお祈りの効果についての解説。
 あれから約50年が過ぎ、今、私はこう言えます。
 庭師である神よ、本当にありがとうございます。愛ゆえに私が傷ついても枝を切ってくださったのですね。
 持っている能力や才能がどうあれ私たちはみな神の大きな期待に応えることができます。神が愛ゆえに軌道修正してくださるのを祈り求めましょう。
 イエス・キリストの御名により、アーメン。
 LDS信仰により昇進できなかった過去はどのようなオチを迎えたのかの解説がない。書かないということは昇進できなかったのだろう。この物語のライターにとってブラウン長老が昇進できなかったというエピソードは物語の筋において重要ではなかった。

 またはこの物語自体がライターの創作の場合、LDSを信仰していても救われるオチが必ず訪れるわけではない事実を提示していることになる。

「あれから約50年が過ぎ、今、私はこう言えます」:これは直接の暗喩では、LDS信仰で社会から摩擦を受けて隔絶されるのを納得して受け入れられる精神状態になるまで50年ぐらいかかると言っているが、そもそも動画の解説でそのブラウン長老の50年の苦悩を詳細に解説して視聴者に50年分の達観を与えて同様の苦労をしないよう穴埋めしようとしないのはなんなのか。まるでご老人が「詳細は言えないけど社会との軋轢で50年悩んでLDS信仰に落ち着いた。どう悩んだか言えないけどあなたも50年悩めば悟るよ」というふわっとした話題を提示して勝手に自己解決しているようです。「いやあなたがLDS信仰貫いたことによる損失は事実LDSからは50年もの間何の補填はされてないし、その上であなたが50年悩みぬいてLDSを全面的に信頼するに至ったとは普通には理解しがたい。その50年分の厚みを詳細に提示して納得させ、ひいては話の主題になっている50年分の年の功を我々に与えてほしいが、あなたがその50年分のお話を提示しようとしないのは何なのか。あなたは我々があなたと同様に苦しむ様を見るのが好きなのか、それともあなたが解説能力がない無能なのか。こちらにとってあなたの今までの話は全てが参考にならない無駄話の域を出ておらず、聞くのに疲弊させられた」とツッコミ入れたくなる。
 この50年とは、ライター的には、LDS信仰で現在に社会ともめ事起こしたら、LDSの教義には解決方法ないけどLDSの教義を読み込んで、50年間耐え抜いてやるという精神で生き抜いてくださいねというメッセージになる。なのでライターはLDS信仰が社会でのもめ事を具体的には解決する能力がないと知っており、LDS信者にはその知っていることを直接的に伝える気はないと分かる。

「庭師である神よ、本当にありがとうございます。愛ゆえに私が傷ついても枝を切ってくださったのですね」:LDS信仰で社会と摩擦してもLDS信仰をありがたく受け入れるべきだと提示。

「持っている能力や才能がどうあれ私たちはみな神の大きな期待に応えることができます」:自身の能力・才能をLDSに捧げるよう提示。

 一般の方がドラマとしてこの物語を見る場合、ブラウン長老が何を感謝しているのかが分からないし、ブラウン長老の昇進が結局どうなったのかが分からないので腑に落ちませんし、全体的に意味が分からないです。音楽だけで押し切っている感が強いです。
 ライターはドラマとしてこの動画の脚本を描いたわけではなく、LDSの信者はどのように信仰意識を働かせるべきかというテーマにだけに注力して脚本を書きました。
 LDSの信者はこの動画を見てもLDS本部の作為を感じません。信者はLDSから与えられる情報に対して何も疑いがありません。これは神からの情報なのでライターの意図なんて存在しないと本気で信じているのかもしれません。