脱キリスト教カルトの会

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エホバの証人の輸血拒否問題について

 Twitterで現在、エホバの証人の輸血拒否問題が騒がれています。
 エホバの証人では信者に輸血は拒否すべきだという旨の教義を教えていました。しかし安倍晋三銃撃事件があり、宗教二世が自宗教を嫌がっていたら保護するという旨のガイドライン厚生労働省が作成し各カルト宗教に圧力、政府のターゲットは主に統一教会だったのですが今回エホバの証人にも注力、解散命令を恐れたのかエホバの証人が「輸血を信者に強制はしてない」との見解を出してTV報道になり、エホバの証人の信者は「いや輸血の話はめっちゃ教義だったし小冊子で輸血拒否で死んだ人を美談にして、あなたも輸血拒否して信心深く死ねたら最高みたいなこと言うてたやん」とツッコミしました。

Twitterでのコメント(タップ)

 さてエホバの証人の教義であった輸血拒否とは一体何であったのか。
 当ブログの見解としては、輸血拒否の教義は聖書の歪なモダン化によって生まれたものであり、現代日本人には全く守る意味のない無駄な教義だと結論付けます。


エホバの証人の輸血拒否問題について

 1984年のアメリカで起こったデュー事件はエホバの証人の輸血拒否問題の代表例として知られています。
 この事件では13歳の少女が腎臓移植の手術中に大出血を起こし、輸血が必要な状況に陥りました。しかし少女の両親はエホバの証人の信仰に基づき、少女への輸血を拒否しました。医師は少女の両親に対し、輸血を行わなければ少女が死亡する事実を伝えましたが、両親は頑なに輸血を拒否し、少女は死亡しました。
 この事件はエホバの証人の輸血拒否の教義が狂気を孕んでいるということを示す例として広く報道されました。この事件をきっかけにアメリカでは、未成年者が輸血を拒否する権利に関する法律が制定されるなど、医療倫理や法的な問題を引き起こしました。
 エホバの証人はデュー事件の少女含む輸血拒否で亡くなった若者たちを、エホバの証人の小冊子『神を第一にした若者たち』などで信仰を立派に示した者達として紹介。信者はこれを支持。輸血拒否の教義は未だにエホバの証人の信者の間で支持され続けています。


輸血拒否の教義が生まれた原因:キリスト教の教義は形骸化されている

 聖書は紀元前後に中東の思想家が宗教・思想・性が混沌とした自国民へ向けて神の言葉という建前を使って書いた書物です。聖書は現代の人々に向けて書かれた書物ではありませんが、熱狂的に聖書を支持する人によって教義のモダン化が行われました。その過程で聖句の一部を拡大解釈して聖書にない教義が生まれました。
 エホバの証人の輸血拒否の教義は聖句の一部を拡大解釈した末に生まれました。

エホバの証人が輸血禁止の根拠にしている聖句(タップ)  今回聖書を引用するにあたって、正確な情報を期すため、一般的な『聖書』とエホバの証人の使う『新世界訳聖書』を同時に引用します。
 新世界訳聖書は、エホバの証人が独自に翻訳・出版している聖書です。エホバの証人は原典にできるだけ忠実に聖書を翻訳していると主張していますが、新世界訳聖書がエホバの証人の教義に合わせて一部の箇所で意訳されているという指摘がされています。
聖句一般的に読み取れる内容
創世記
9:3-4
3 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
4 しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。

■新世界訳聖書
3 生きている動物はどれも食物にしてよい。緑の草木と同じように,それら全てをあなたたちに与える。
4 ただし,血を含む肉を食べてはならない。血は命だからである。

動物は食べてもいいけれど血を含んだ肉を食べてはいけない。

新世界訳では、血は命を含んでいて特別なものだというニュアンスが深い。

レビ記
17:10-14
10 イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。
11 肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
12 このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。
13 イスラエルの人々のうち、またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち、だれでも、食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は、その血を注ぎ出し、土でこれをおおわなければならない。
14 すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

■新世界訳聖書
10 イスラエルの民や,あなたたちの間に住んでいる外国人の誰かが,何らかの血を食べるなら,私は血を食べているその人に必ず厳しい顔を向け,その人を民の中から除く。
11 生き物の命は血の内にあるからであり,私がそれをあなたたちに与え,自分たちのために祭壇で贖罪を行えるようにした。血が,その内にある命によって贖罪を行うからである。
12 それで私はイスラエル人に言った。「あなたたちのうちの誰も血を食べてはならない。あなたたちの間に住んでいる外国人も血を食べてはならない」。
13 イスラエル人やあなたたちの間に住んでいる外国人が狩りをしていて,食べてよい野生動物や鳥を捕まえた場合,その血を注ぎ出して土で覆わなければならない。
14 あらゆる生き物の命はその血であり,命が血の内にあるのである。そのため私はイスラエル人にこう言った。「どんな生き物の血も食べてはならない。あらゆる生き物の命はその血だからである。血を食べる人は皆,除かれる」。

イスラエル人とクリスチャンは血を含んだ肉を食べてはいけない。血抜きしたら食べていい。

新世界訳聖書も同様の内容。

使徒行伝
15:19-21
19 そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。
20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。
21 古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。

■新世界訳聖書
19 ですから,私の決定は,神を崇拝するようになる異国の人々を煩わさず,
20 偶像によって汚された物と性的不道徳と絞め殺された動物と血を避けるよう書き送ることです。
21 モーセの書は安息日ごとに会堂で朗読されていて,それを教える人が昔からどの町にもいます」。

ヤコブギリシャ都市アンテオケの人々に向けて、こう生活して欲しいという要望を手紙を書いて送る。
その要望の一つに「血を避けるように」がある。
文脈的には、血を飲むというよりかは、人殺しを避けるという意図の方が強く感じる。

新世界訳聖書も同様の内容。

 エホバの証人が輸血拒否の根拠にしている聖句は「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」「使徒行伝15:19-21」です。その内「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」は血抜きせずに肉を食べてはいけないという内容です。
 肉を血抜きする意図は、肉は血抜きしないと臭くて食えないのと、血に雑菌が繁殖しているから血を飲んだら病気になる可能性があるのとがあります。
 くどいようですが、聖書は中東の人に向けて書かれた書物です。中東は年中蒸し暑い地方なので、血抜きしていない肉は雑菌が繁殖しやすくて危険です。血抜きしていない肉を食べて食当たりで亡くなる人が多かったのでしょう、日本で言う食品衛生法のように聖書に「神が血抜きしてない肉を食べるなと言ってたんで守れよ」と加えたのだと推察できます。

余談。ユダヤ教・イスラム教での食品衛生について(タップ)
 ユダヤ教では旧約聖書を根拠にして「カシュルート(適正食品規定)」を定め、血液を食べてはいけないとしています。
 イスラム教では独自の衛星基準「ハラール認証」を定め、血液を食べてはいけないとしています。
 ユダヤ教イスラム教どちらも中東という熱い地方で流行った宗教です。血抜きせずに肉を食べるのは雑菌を食べるのと同じで危険なので、食品衛生の観点で「カシュルート」「ハラール認証」の両方で血液を食べてはいけないことになっていると推察できます。

 「使徒行伝15:19-21」で使われる「血」は食べてはいけないというよりかは殺し合いで血を浴びるようなことがあってはならないという文脈になっています。

使徒行伝15:20
ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。

 エホバの証人は「創世記9:3-4」「レビ記17:10-14」「使徒行伝15:19-21」を根拠にして、
・血液は神聖なもので、血液を摂取するのは神への冒涜行為であり信仰上の罪になる。
・輸血には病原体の流入や輸血不適合反応や合併症のリスクがある。
 としています。信者は輸血を拒否することで信仰と道徳的価値観を守ることができるそうです。

 エホバの証人は輸血拒否を教義としましたが、これは聖句の持つ本来の趣旨とは明らかに違います。エホバの証人指導者が自宗教の教義を考える際に聖句を無理やりモダンにするために拡大解釈した結果がこの輸血拒否の教義になったのだと思われます。
 なぜこんな聖句と乖離している教義を信者が盲信し続けたのか。キリスト教全般に共通する傾向として、信者は教義や儀式に対して固執し、何の疑問を持つことなく従う(運用する)ことが美徳とされます。このような信仰を「幼子のような信仰」と表現することもあります。教義や儀式に疑問を持つこと、つまりは教義や儀式の持つ本来の意味に気づいて守る価値のない教義・儀式だと他の会員に吹聴してしまうことは教会の運用に支障を来たすので、そういう人を作らないよう、疑問を持つ人は背教者として教会から攻撃される対象になるのだと教会の中で教えて予防線を張っています。また同時に、教会は無批判に愚直に教義や儀式を守り続けるのが美徳なのだと信者には説き、信者もその通りにします。教義や儀式の本来の意味を理解している人は教会内にはいませんし、教会運用上作ってはいけません。エホバの証人の信者が聖句の持つ本来の意味を理解しようとせず、エホバの証人の教義を鵜呑みにし続けるのはこういった理由からです。

 エホバの証人含めキリスト教をされている方々には、教会以外の場所できちんと聖書と中東の歴史を勉強して、適切にキリスト教を語れるようになってほしいです。