脱キリスト教カルトの会

キリスト教系カルトに苦しむ人が人生を取り戻すためのブログです

末日聖徒イエス・キリスト教会の動画「神の御心」よりカルト要素解説

末日聖徒イエス・キリスト教会提供ビデオ「神の御心」

www.youtube.com
スマホアプリ『福音ライブラリ』>「ビデオと画像」>「霊感を与えるメッセージ」>「神の御心」

 一般人には始終全く意味不明な内容ですが、会員には意味の通る内容です。
 カルトの洗脳技法「トンネル」を動画内で分かりやすく盛り込んでいます。「トンネル」は社会や世間体との交流を遮断させ、視野を教団のみに集中させて突き動かす効果があります。


私がこの動画に出会ったきっかけ

私の伝道経験など(タップ) 私が末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師として神戸伝導部で伝道していた頃にディストリクトリーダー(その地域の宣教師を管理する人)からこちらのビデオ「神の御心」をご紹介いただきました。私自身が宣教師というキャラに成れなかったのを見て、宣教師になり切って欲しいという親切心で「神の御心」を見せてくれたのだと思います。
 私は動画を拝見しましたが、私が具体的に何を学べばいいのか全くわからないし意味が分からないとディストリクトリーダーに伝えました。ディストリクトリーダーは意図しない答えに微妙な顔をしていました。
 そんなこんなで、私という人間は自分で言うのもなんですがモラリストで指示に従順で聖書にも精通していて自分の心に素直な一般人なのですが、素直すぎて当時の伝道部会長ともめて、私の伝道の任期は3ヶ月で終わりました。その3ヶ月のごたごたを彩る一色としてこの動画があります。

 読者のあなたはこの動画を通して末日聖徒イエス・キリスト教会の会員が日曜にどんなふわっとした物語を普段聞いているのかがなんとなくわかると思います。
 このふわっとした内容の動画を私がどのように感じているのか、下記から少しでも分かっていただけたら嬉しいです。ついでに私が日曜日に教会に行き続けた日々が私にどれほど合わなくて苦痛であったのか想像してくださるとありがたいです。

動画のカルト手法

動画で使われているカルト手法
・「トンネル」:社会や世間体との交流を遮断、視野を教団のみに集中させて突き動かす。教団離反者を攻撃することでより教団に集中させる。視野狭窄効果・教化効果がある。

動画要約
・世間や自身の考えを排してLDSの意見を行わなければならない。
・主体的にLDSの教えを学び従う。
・人生の主体はLDSである。

末日聖徒イエス・キリスト教会の別称
・モルモン
・LDS(The Church of Jesus Christ of "Latter-day Saints")

解説



動画内容:末日聖徒イエス・キリスト教会の教え 末日聖徒イエス・キリスト教会のカルト洗脳手法の解説
 天の御父の大きな期待に応えるために必要な心構えと行動についてお話ししたいと思います。
 それは御父が軌道修正してくださるのを喜んで受け、さらにそれを求めることです。
 「天の御父の大きな期待」:LDSの教義が大義であり、自身の意見を超越したものだという意識を植え付ける。

「それは御父が軌道修正してくださるのを喜んで受け、さらにそれを求めることです」:信者は自身の意見を排してLDSの意見を喜んで学んで従うべきだと暗に示している。
 ヒュー・B・ブラン長老は何年も前にカナダで荒れ放題となっていた農場を購入した時のことを語っています。
 農場整備し修繕していた時に1.8メートルほどまで成長しながら実を付けていないスグリの木を見つけました。そこで幹だけを残して大胆に枝を切り落としました。
 枝の切り口には涙がたまっているように見えました。スグリの木が泣いていて、その声が聞こえたような気がしました。
 LDS本部からの教育は頻繁にたとえ話を多用する。これはイエス・キリストが賢くない人々を諭すためにたとえ話を用いたという故事に由来する。(マタイ13:10-13)
「あなたはどうしてこのようなことをなさるのですか? 私は十分成長してきたのに、あなたは私を切ってしまいました。庭の木はみんな私を見下すでしょう。
 どうしてあなたはこのようなことを私になさるのですか? 私はあなたがここの庭師だと思っていたのに」
「あなたはどうしてこのようなことをなさるのですか?」:LDSの無茶な教えも受け入れるよう強要。

「私は十分成長してきたのに、あなたは私を切ってしまいました」:LDS信仰で精神退行する場合がある事実の提示。

「庭の木はみんな私を見下すでしょう」からの流れ:LDSの教えで周りから非難されることがあってもLDSを信じるよう強要。
「かわいいスグリの木よ、私はここの庭師だ。私はお前にどのような木になって欲しいか知っている。果実や木陰を作る木ではなく、スグリの木になって欲しいのだ。
 いつかお前がたくさんの実を付ける時言うだろう。「庭師よ本当にありがとうございます。 愛ゆえにに枝を切ってくださったのですね」」
「私はここの庭師だ。私はお前にどのような木になって欲しいか知っている。」:自身の理解を超えたLDSの大義を信じるべきだと提示。

「いつかお前がたくさんの実を付ける時言うだろう。「庭師よ本当にありがとうございます。 愛ゆえにに枝を切ってくださったのですね」」:LDSには愛があるという刷り込み。
 それから数年後、ブラウン長老は大将に昇進する機会が来て、資格があったにもかかわらず、モルモンであるために昇進を認められませんでした。
 ブラウン長老はお話を続けています。 汽車に乗り街へと引き返しました。 私の心はひどく傷つき苦々しさばかりが残っていました。テントに付いた私は帽子をベッドの上に投げつけました。拳を天に向かって振り上げ叫びました。
「神よあなたはどうしてこのようなことをなさるのですか! あれほど努力してきたのにどうしてこのようなことをなさるのですか!」
「ブラウン長老は……モルモンであるために昇進を認められませんでした」:LDSの信者をしていると昇進を認められないなどの弊害があるという事実の提示。
 その時、私自身の声が聞こえてきました。
「私はここの庭師だ。私はお前にどのような木になって欲しいか知っている」
 心の中から苦々しさが消えていきました。私はベッドの脇にひざまずき心に抱いた不敬の念に許しを請い求めました。
「私はここの庭師だ~」:自身のLDS信仰による社会との摩擦はLDSの教えに従うためにあると提示。

「心の中から苦々しさが消えていきました。私はベッドの脇にひざまずき心に抱いた不敬の念に許しを請い求めました」:LDSの教義は真摯に受け止めるべきだという模範例。心の中の苦々しさの解消の下りはお祈りの効果についての解説。
 あれから約50年が過ぎ、今、私はこう言えます。
 庭師である神よ、本当にありがとうございます。愛ゆえに私が傷ついても枝を切ってくださったのですね。
 持っている能力や才能がどうあれ私たちはみな神の大きな期待に応えることができます。神が愛ゆえに軌道修正してくださるのを祈り求めましょう。
 イエス・キリストの御名により、アーメン。
 LDS信仰により昇進できなかった過去はどのようなオチを迎えたのかの解説がない。書かないということは昇進できなかったのだろう。この物語のライターにとってブラウン長老が昇進できなかったというエピソードは物語の筋において重要ではなかった。

 またはこの物語自体がライターの創作の場合、LDSを信仰していても救われるオチが必ず訪れるわけではない事実を提示していることになる。

「あれから約50年が過ぎ、今、私はこう言えます」:これは直接の暗喩では、LDS信仰で社会から摩擦を受けて隔絶されるのを納得して受け入れられる精神状態になるまで50年ぐらいかかると言っているが、そもそも動画の解説でそのブラウン長老の50年の苦悩を詳細に解説して視聴者に50年分の達観を与えて同様の苦労をしないよう穴埋めしようとしないのはなんなのか。まるでご老人が「詳細は言えないけど社会との軋轢で50年悩んでLDS信仰に落ち着いた。どう悩んだか言えないけどあなたも50年悩めば悟るよ」というふわっとした話題を提示して勝手に自己解決しているようです。「いやあなたがLDS信仰貫いたことによる損失は事実LDSからは50年もの間何の補填はされてないし、その上であなたが50年悩みぬいてLDSを全面的に信頼するに至ったとは普通には理解しがたい。その50年分の厚みを詳細に提示して納得させ、ひいては話の主題になっている50年分の年の功を我々に与えてほしいが、あなたがその50年分のお話を提示しようとしないのは何なのか。あなたは我々があなたと同様に苦しむ様を見るのが好きなのか、それともあなたが解説能力がない無能なのか。こちらにとってあなたの今までの話は全てが参考にならない無駄話の域を出ておらず、聞くのに疲弊させられた」とツッコミ入れたくなる。
 この50年とは、ライター的には、LDS信仰で現在に社会ともめ事起こしたら、LDSの教義には解決方法ないけどLDSの教義を読み込んで、50年間耐え抜いてやるという精神で生き抜いてくださいねというメッセージになる。なのでライターはLDS信仰が社会でのもめ事を具体的には解決する能力がないと知っており、LDS信者にはその知っていることを直接的に伝える気はないと分かる。

「庭師である神よ、本当にありがとうございます。愛ゆえに私が傷ついても枝を切ってくださったのですね」:LDS信仰で社会と摩擦してもLDS信仰をありがたく受け入れるべきだと提示。

「持っている能力や才能がどうあれ私たちはみな神の大きな期待に応えることができます」:自身の能力・才能をLDSに捧げるよう提示。

 一般の方がドラマとしてこの物語を見る場合、ブラウン長老が何を感謝しているのかが分からないし、ブラウン長老の昇進が結局どうなったのかが分からないので腑に落ちませんし、全体的に意味が分からないです。音楽だけで押し切っている感が強いです。
 ライターはドラマとしてこの動画の脚本を描いたわけではなく、LDSの信者はどのように信仰意識を働かせるべきかというテーマにだけに注力して脚本を書きました。
 LDSの信者はこの動画を見てもLDS本部の作為を感じません。信者はLDSから与えられる情報に対して何も疑いがありません。これは神からの情報なのでライターの意図なんて存在しないと本気で信じているのかもしれません。

『ツァイトガイスト(Zeitgeist)2007』キリスト教言及部分まとめ

 動画前半でキリスト教全般のツッコミをしてましたので、書き起こししました。
・神が出鱈目な存在であること
・キリストの物語が過去の神々の逸話からの引用であること
・キリスト生誕のエピソードが占星学的な解釈によるもの
・終末論の由来
・紀元前後の歴史家はキリストの存在を書物に書かなかったこと
・政治が信仰の方向を制定して聖書と教会を作ったこと
 などが動画で語られています。
 字幕が尺に合わせて無理に短くしてたり、原文の英語もあまり上手な表現でなかったりする箇所が多々あるので添削してます。完成までにかなり手間がかかりそうです。

続きを読む

反モルモン資料『教会教育システム 監督への手紙(Jeremy T. Runnells著)』まとめ

『教会教育システム 監督への手紙(Jeremy T. Runnells著)』
 上記URLのPDF資料のまとめを書きます。
 かなり膨大な量があるので、まとめるのにかなり時間がかかります。

p08

モルモン教への反対材料 後でまとめます

ameblo.jp
ameblo.jp
blog.goo.ne.jp
www.fairlatterdaysaints.org
www.youtube.com
モルモン教が反LGBT方針を廃止。当事者らは説明不十分との批判 | ハフポスト WORLD
http://garyo.or.tv/michi/youkoso.htmgaryo.or.tv
モルモン教関連性暴力告発ページ
https://cesletter.org/%E6%95%99%E4%BC%9A%E6%95%99%E8%82%B2%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99.pdf
ameblo.jp

日本人の宗教信仰について

 戦前には日本人は神道を厚く信仰しており、戦中は天皇と御国のために諸外国と戦っていました。
 現在の日本は神棚やお墓参りや初詣で生活の一部に神道の様式が入ることはありますが、神道を全く信仰していません。
 日本人はなぜ神道を信仰しなくなっていったのでしょうか。

目  次

日本人の信仰心の移り変わり

戦前

 戦前の日本人の大半は農業に従事していました。
 その当時の農業は農家の方がいくら卓越した人であって田畑に情熱を注いだとしても、天候や気温や害獣という外的要因の影響が非常に大きく、時期によっては干ばつや台風でやむなく不作に陥ることもありました。
 もし不作に陥って立ちいかなくなった場合は口減らしで子供を都会に身売りしたり、お年寄りを姥捨て山に捨てたり、強盗を働いたり、最悪は一家心中をしたりしていました。
 農家の方々は日々移り変わる天候や気温、急に来る干ばつ・台風などの自然災害を神の仕業と考え、神に田畑を荒らされないように、日々無事に農業生活を過ごせるようにと願い、豊穣の祭りである相撲をしたり、神社に行って賽銭箱に献金をしたり、大黒天様の社を家に飾ったりして、神道を信仰することで不安を解消していました。

世界大戦中

 世界大戦時での日本人の神道の信仰は今までのものとはニュアンスが異なります。
 戦前の神道信仰は元々は農業生活を平穏に過ごしたいという所に根付いていました。
 戦中は政府が「神道の神様である天皇を崇拝して御国に尽くすのが日本人だ」というスローガンを全面的に全日本人に強要、疑問符を投げかける国民は投獄しました。この頃の神道信仰は「国家神道」と呼ばれるほど国民で熱狂していました。日本人は極度の神道信仰により世界大戦で自爆特攻を平然とやってのける等の命知らずの戦いを見せて世界各国を恐怖させました。
 私は戦中の日本人の神道信仰は二つあると考えます。一つは戦前にあった「農業生活を平穏に過ごしたい」という農業的神道信仰と、もう一つは戦中に政府が推し進めていたスローガン「天皇を崇拝して御国に尽くす」という天皇神道信仰。

戦後

 世界大戦で神道信仰により狂気の活躍をしていた日本人ですが、広島・長崎に原爆が投下されて日本が降伏。GHQ最高司令官マッカーサー天皇に謁見、天皇を戦犯として起訴すれば日本の情勢に混乱をきたすと判断して象徴天皇制を強要しました。
 象徴天皇制とは、天皇神道の神様ではなく、あくまでも日本国民の象徴であると位置付ける制度。天皇は日本国民を洗脳した戦争の主犯ではなくなり、あくまで日本国民の一人として数えられるようになりました。それにより日本人の神道信仰の一つである「天皇を崇拝して御国に尽くす」は無効になり、政府は信仰を強要しなくなり、だんだんと日本人の天皇神道信仰は薄れていきました。

メディアの発展

 戦後は天気予報が発達して現代のように天候、温度、台風災害、地震災害を伝えるようになりました。
 (日本の天気予報は1884年6月1日から存在していましたが、当初は暴風の有無を注視しており、まともな天気予報ではありませんでした。)
 テレビ新聞などのメディアが発達し、天気予報を日本国民に伝えるようになります。
 天気予報を知る前の農家の方々は天候や気温や台風を自分のコントロールを離れた超自然的なものとして畏怖し、その畏怖が神道の信仰となっていました。
 天気予報により農家の方々は日々の天気や気温や台風が神の仕業ではなく、あくまで自然現象の一部だと理解できるようになり、日々の畏怖は遠くなって農業的神道信仰が薄れました。
 戦前にあった「農業生活を平穏に過ごしたい」という生死にかかわる切実な願いが、天気予報によって非常に軽度の願いになりました。
 神道への信仰が薄れるにつれ、日本各地にあった相撲祭りが撤廃され、各学校から相撲場が撤廃されました。
 日本が豊かになり農業含む第一次産業以外の食生産に関わり合いのない産業が飛躍的に発展。神道の信仰に触れる機会がなくなっていきました。
 地下鉄オウムサリン事件があり、厭宗教化が進み、宗教の人口が少なくなって閉館・合併される宗教施設が増えていきました。


現代の日本で宗教を信仰するということ

 今の日本人は宗教信仰をしなければ生きていけないということはなくなりました。現代の信仰はあくまで趣味的信仰です。
 そんな日本にあって、キリスト教系カルトに所属していて他の宗教も見てきた私は確かに宗教を信仰している人を何人も目の前に見てきました。
 日本の宗教が推している信仰の形式は不安型です。対人の不安、性の不安、キャリア形成の不安、子育ての不安、家族形成の不安、災害への不安、最近でしたらLGBTQの不安など、人生の中の様々な不安を宗教が信者に提示して植え付け、宗教や指導者や教理を妄信していれば不安を安心にさせられると説いています(説いている教理の内容はあくまで対処療法であり、不安の原因が根絶されるわけではないです)。なので宗教に属する方は基本的には無暗に不安を感じやすく、不安を動機に言動をし、自宗教を思っている間は母の保護で安心し切った子供のような態度になります。

信仰をする人たちの傾向

 あくまで私の例ですが、信者の信仰を大分すると下記のようになります。
・家庭や人間性に不備があって周りの人達に迷惑をかけて不安になるため、免罪符のために信仰をする。
・一般の友人がいないため友達作りで来る。
ナルシシズムを満足させるため、同宗教や周りの人間にマウントするために信仰を実践研究する。
・持病をプラシーボ効果で緩和させるために信仰をする。
・親が信仰していたのでなんとなく自身も信仰していることにしている。
・経典に書かれていることを真実として捉え、真実を研究していくのが楽しい。この傾向の人は何かしろの論理の飛躍・破綻がある。
・偶発的に起きる奇跡と呼ばれる出来事にスピリチュアルなものを感じて固執して信仰をする。

 上記に属さない場合は洗礼を受けて信者になったとしても教会に行くのが長続きしません。
 中には確かに人間的弱さで宗教信仰をしなければ生きていけないだろう人はいます。しかしそういった人間的に弱い人間を保護する役割は宗教が担うべきではなく、本来は地方自治体が担うべき責任だと思います。
 人間性のしっかりした愛情深い信頼できる人間もいます。しかしそういった人格の人間が作られることは宗教構造上本当に稀であり、探しても見つけ辛いです。
 どのような信仰であれ、出来事に対して必要以上に不安を持ってしまって言動がおかしくなったり、理想論に固執してしまったり、都合のいいことだけを信じて聞く耳を持たないようになったり、人間性に著しい問題を持ってしまって社会で問題を頻発してしまったりと、不出来な人間になりやすいです。
 現代の日本人の信仰は、私としては酷く不健康なものに感じられます。

 信仰が厚いアメリカ人クリスチャンが日本で伝導されて真剣にキリスト教を勧めていることがあります。アメリカは倫理がぶっ飛んだ国なので、キリスト教徒というだけでもある一定の倫理基準があると評価され、ひいては仕事に恵まれたり社内での地位が上がったり給与が上がったりと社会的・生得的な利点が得られます。現在の日本では信仰は趣味の範囲なので、アメリカ人クリスチャンは日本人との感性の差が激しく、日本での伝道は難しいとよく嘆いています。


まとめ

 戦前の日本人は農業で暮らしていた。農作物への自然災害に酷くおびえており、自然災害を神の仕業として神道を信仰することで不安を解消していた。日本人の大半が神道を信仰していた。
 戦後の天気予報の発達によって自然災害が予測可能のものとなって不安が薄くなり、神道への信仰が薄れた。
 地下鉄オウムサリン事件で厭宗教の風潮になり、全宗教の人口が目減りしていった。
 現代の日本で信仰を持つということはあくまでも趣味趣向の範囲。生きるためには必要はない。


余談

 オウム真理教地下鉄サリン事件を境に明らかに世間の厭宗教風潮が強まったのですが、最近あった統一教会献金要求に家庭を壊された二世信者の起こした安倍元首相殺害事件も厭宗教の風潮を明確に強めていくんじゃないかと思っています。
 日本の宗教であるPL教団は1953年から毎年8月1日に教祖祭PL花火芸術という規模の大きい花火大会を行っていましたが、近年は段々と規模が縮小していて、2020年・2021年と今年である2022年は大会自体を中止しています。PL教団自体も年々人口が縮小し続けて施設合併を何度かしていますし、資金繰りが怪しくなってしまっているのを何となく感じ取れてしまいます。
 私は皆様には宗教は微塵もお勧めしませんし、厭宗教の風潮が極まれば良いと心底思っていますが、教祖祭PL花火芸術は好きなので、安倍元首相殺害事件で厭宗教の風潮が強まるのには嬉しい反面で多少の悲しい気持ちもあります。

聖書勉強の問題

 クリスチャンは日曜などに教会に行き、聖書を勉強します。
 どのようなことを学んでいるのでしょうか。



 基本的にクリスチャンは聖書に異常なほど疑問を持ちません。

・国家資格の分厚い本であっても学び尽くせばもう読む必要はないのに、なぜクリスチャンと呼ばれる人々は新約・旧約聖書を延々と読み続けるのだろうか。読んで学んでいるつもりで、実は全く学びが深くなっていないのではないか。
・善人の代表例であるキリストになるために聖書勉強を続けているのに、自分はなぜキリストのように水の上を歩けるようにならないのだろうか。自分の教会ではキリストのように水を歩ける人間は今まで一人もいなかったので聖書勉強はキリストになるための方法としては間違いではないのではないか。周りのクリスチャンが寿命で亡くなったけれどキリストのような超人ではなくただの間違いのある普通の人だったので、聖書勉強は意味がないのではないか。
・聖書の舞台は中東で、聖書の訓戒は中東の人に向けた訓戒なのだけれど、日本人である自分には関係ないのではないか。というか自分は聖書からしたら異邦人であり、野蛮な人間扱いであり、馬鹿にされてはいまいか。また、自分は中東の人ほど性に奔放ではなく、未認知の子を奴隷として売り買いするような非常な人間でもないため、聖書からしたら倫理的に高く、中東の人を矯正するための聖書の訓戒を真に受けるのは過剰過ぎはしないか。
・今読んでいる成句の主語は神なのかキリストなのか善人なのか悪人なのか。

 聖書を読んでいて当然思うであろう上記の疑問をクリスチャンは一生涯気付きはしません。


 実際の聖書勉強は教会のケーススタディに沿って行われます。人生の問題の中で、聖書の一文を引用して自分の人生はかくあるべし、と教会の教理を学んでいきます。聖書はあくまでも添え物です。
 教会は純真な信者が欲しいです。なので純真な信者を作るのに都合の悪い出来事は教会はクリスチャンに知らせません。聖書の訓戒が中東の人に向けたものである事実や、自分が異邦人として馬鹿にされている事実や、半魚人のダゴンとか処女以外が背中に乗ったら殺す馬のユニコーンとか海の猛獣のリバイアサンとかいう明らかに現実に存在しない生き物が聖書の中で生息している事実や、ユダヤ教キリスト教イスラム教で共通する神が信者に異なる啓示を与えて殺し合わせている事実や、エリコの大虐殺(ヨシュア記6章12~24節)を論拠にクリスチャンが大量虐殺してきた歴史やを、今のクリスチャンは教会から教わっていないです。教会側がそれらを知らないから信者にそれらを教えられないというわけではないです、そこまで教会は馬鹿ではないと信者ならわかります。ただ、それらが教会にとって、信者に「純真な信者」というキャラクターを植え付けるための材料に相応しくないと判断しているからあえてなかったことにしているのです。
 教会のケーススタディに従うのに充実感を持って、その充実感を自分の意見を持っている証拠だと勘違いするクリスチャンが多いです。実際は教会の意見を植え付けられて盲信しているだけなのですが、この教会を妄信するという滅私の精神が信者間で評価されます。クリスチャン特有の安心しきった純粋無垢な性格はここからきています。
 クリスチャンは聖書を勉強しているようで実際は全く勉強してなくて、教会のケーススタディを勉強しています。しかしクリスチャンは本当に聖書を勉強したつもりになっています。その欺瞞に気付けないのは、単に思慮が足らないのもあるでしょうが、クリスチャンは教会のケーススタディに心酔して、教会が自分の人生に必要だと思い込んでいるからなのでしょう。しかしいくら教会を心酔して信者から多大な評価を得たとしても、教会から社会に必要な仕事術や資格検定を学べるわけではないので一人前の人間として社会貢献していくことはできず、そのままでは生きることすらままなりません。教会のケーススタディはあくまでもその教会の信者という性格をクリスチャンに植え付けるためのものです。


 紀元前後の中東に住む一部の倫理的に最低な人たちを矯正するために、中東の各地で神の言葉という建前を使って書かれた書物が聖書です。
 当時の中東の人々の問題は、一部の人々が性に奔放で無暗に子供を作りまくったり、子供が両親に認知されなければ奴隷として働かされたり、暴力賛歌の文化があって奴隷同士を殺し合わせたりというのがありました。
 こういった中東の人たちを矯正するためにはかなり厳しい言葉を聖書に書く必要がありました。これがキリスト教の中に残る強烈なNot教育の原因です。
 キリスト教が流行った理由は聖書のNot教育が性に奔放で無常な人が時たまいる諸外国にフィットしたのも一因じゃないかと思います。

 諸外国から見て現代の日本人は性に厳しく(大抵の外国は一番の娯楽が性交渉だけれど日本は食事)、性格が良い(大抵の外国は街中で寝ている人の財布を奪うけれど日本は奪わない)ため、倫理的には非常に高いです。
 その日本人が聖書の中にある強烈なNot教育を受けるのは明らかに過剰です。必要以上に性を忌避してしまって人間関係の中にある性の価値観に対して潔癖症を起こして角の立つ言動をしてしまったり、異性との恋愛で性とどう付き合っていいのかわからず恋愛が上手くいかなかったり、仕事の業務に必要以上に潔癖を起こして仕事がままならなくなって仕事仲間からはぶられたり、などの問題を引き起こす可能性が高いです。もし問題を起こさずとも、人として付き合いづらいのには変わりがないと思います。


 聖書勉強とは聖書の内容を吟味して昔のパレスチナあたりの史実への理解を深めることではなく、教会の自己啓発セミナーで洗脳されることだった。聖書を全く勉強できてないけれど、当人は自信満々で聖書を勉強してるつもりになっています。なぜ。
 聖書に描かれている争いごと絶えない中東の人へ向けた厳しい訓戒を平和な日本人が受けると変人になる。そりゃそうだ。



やっかいなのは、何も知らないことではない。
実際は知らないのに、知っていると思い込んでいることだ。
What gets us into trouble is not what we don’t know.
It’s what we know for sure that just ain’t so.
マーク・トウェイン
 クリスチャンは聖書を教会から学ぶのをやめるべきです。適切に聖書を評価するために、聖書の背景である中東の歴史を理解して、クリスチャンの引き起こしてきたアメリカ人の歴史を学び、聖書がどう世の中を動かしてきたのかを理解すべきです。
 クリスチャンにはキリスト教徒としてではなく、宗教を学ぶ者として聖書を語れるようになって欲しいです。

メモ クリスチャンは変な人が多い理由



 クリスチャンは大体どんなトリガーからでもお祈りと世間体無視した意味不明な言動がセットで付いてくる。
 神を信じ切って安心しきった態度が身についた信徒は一見良さそうな人に見えますが、世間体と乖離した変な人間。
 真摯なクリスチャンは精神の適切な成熟が神によって阻害されています。肥大化したコンプレックスが抑えきれずに表に出してしまう人が多い。
 クリスチャンは思い込みが激しくて問題を起こして頻繁に反省するのに、神が実在するという思いが思い込みではないとなぜか信じ切っている。

当ブログ用 聖句を引用する際に使うコード

 下記を作るHTMLコード。


創世記1:1とか

要約
原文

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端的な自己紹介

 末日聖徒イエス・キリスト教会というキリスト教系カルトの2世として生まれて宗教教育を受けるも、学校卒業して社会に出たら今までの宗教教育が社会ではKY過ぎて何の役にも立たずにかなり困り、うちの宗教駄目だなと悟りました。
 そんな感じの人が書くキリスト教のヘイトを吐き出すだけの毒にしかならないブログです。